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三河戸田氏の謎

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 松平氏発展の契機は、「松平和泉守入道」(松平信光)が、寛正6年(1465年)の井ノ口砦での「額田郡一揆」を室町幕府政所執事・伊勢貞親の被官として「十田弾正左衛門」(戸田弾正左衛門宗光)と共に鎮圧し、三河国内各所に所領を与えられたことである。(上の写真は井ノ口砦跡の稲荷神社。)

 松平信光と共に活躍した伊勢貞親の被官・戸田宗光は、正親町三条家領である上野荘の荘官として、尾張国海部郡の戸田荘から来た「三河戸田氏の祖」とされるが、その正体については、
・戸田氏の養子となった正親町三条家(正親町三条実興)の子説
・戸田氏の養子となった洞院家(洞院実熙)の子説
などがあり、はっきりしない。

 「三河戸田氏の謎」とは、「正体不明の人物がいて、正確な系図を作成できない」ということである。

■『今川記』「額田郡一揆」
(前略)重ねて、京都の御下知として、三河国の御家人・松平和泉守入道、十田弾正左衛門父子に仰せらるに付き、是を御退治(後略)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920348/366

 『今川記』の「十田弾正左衛門父子」について、以前から検討されてきた。戸田弾正左衛門宗光は確実であり、もう1人(「戸田宗光の父」、もしくは、「戸田宗光の子」)が不明であるが、「年齢的に、まだ幼かった「戸田宗光の子」(戸田憲光)ではありえず、「戸田宗光の父」としか考えられず、それは戸田実光であろう」として、戸田氏系図は、
 戸田実興(養子。実は正親町三条実興)─宗光─憲光
ではなく、
 戸田実興(養子。実は正親町三条実興)─実光─宗光─憲光
が正しいというが、私は、三河戸田氏の菩提寺・誓願寺へ行った時に、「コウ=興=光じゃん。戸田実興=戸田実光だ!」とひらめいた。正しい系図は、
 戸田実興(戸田実光)─宗光─憲光
ではないだろうか。

※戸田宗光を「三河国に流れてきた洞院中納言実熙の子」とする説があるが、これは、洞院中納言実熙と正親町三条実興との混同であろう。どちらも名前に「実」を含む京都から来た貴人なので混同したのであろう。

 最近、『今川記』の「十田弾正左衛門父子」が、「父・戸田実光と子・戸田宗光」だとすると、「戸田実光父子」であって、『今川記』のように「戸田宗光父子」とは言わないのではないかと思い、自説を訂正した。
 すなわち、『今川記』の
「松平和泉守入道、十田弾正左衛門父子」
は、
「松平和泉守入道(と)十田弾正左衛門父子(の3人)」
と読むのではなく、
「松平和泉守入道(と)十田弾正左衛門(の)父子(の2人)」
と読むのではないかということである。戸田宗光の妻は、松平信光の娘であるから、戸田宗光にとって松平信光は義父である。すなわち、「松平和泉守入道、十田弾正左衛門父子」は、
「父(義父)・松平信光と、その子(娘婿)・戸田宗光の父子(の2人)」
であろう。

《戸田氏系図①》

              松平信光と共に活躍
                   ↓
戸田信義─義房─頼方─頼房─宗忠─綱光─宗光─憲光─政光─宗光─堯光
                              ↑
              徳川家康の祖父(松平広忠の継室・真喜姫の父)

戸田信義:源義家の5世孫(源義家4世孫・森頼定の10男)で、尾張国海部郡の戸田荘(現在の愛知県名古屋市中川区戸田)の地頭となり、「戸田」と称した。

源義家─陸奥七郎義隆─若槻頼隆─森頼定─戸田信義 ┬義成
                       ├頼重
                                                                                    └義房…宗忠─綱光─宗光      

《戸田氏系図②》
正親町三条大納言公治─正親町三条右中将実興─戸田実光─戸田宗光

 また、「三河戸田氏の祖」は正親町三条公治で、彼の子・実興は尾張国海部郡戸田郷に配流となり、その子・実光は、嫡男・宗光と共に、本家にあたる正親町三条家の代官として、文安年間(1443-1449)に三河国碧海郡上野荘御所(愛知県豊田市上郷町御所)に移り、居城・上野上村城(愛知県豊田市上郷町薮間)を築いたという。

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