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第16回の再放送を観た。

■北条時政


 北条時政は伊豆国へ帰り、史料上の次の登場は京都守護就任であって、いつ鎌倉へ戻ったのかは不明です。『鎌倉殿の13人』では、
・上総広常がいなくなったので、源頼朝は、安達盛長を派遣し、御家人との橋渡し役として、北条時政を呼び寄せた。
・北条時政は、伊豆にいては、いつ粛清されるか分からないので、源頼朝にべったりと付くことにした。
としています。
 個人的には「金剛が生まれた時、孫の顔見たさに鎌倉へ来て、引き止められ、鎌倉に残った」と思っていましたが、金剛は江間で生まれたようですね。

■木曽義仲


顔はむさ苦しいけど、清々しい男に描かれました。
実際は、余分な髭は剃っていたでしょう。(源義経は、史料では「髭が濃かった」ですが、『鎌倉殿の13人』の源義経は、古文書の記述や肖像画とは異なり、髭がありません。)

 11月22日、源義仲は、前関白・松殿基房と連携し、松殿基房の子・師家を内大臣・摂政とする傀儡政権「源政権」を樹立した。また、源義仲は、松殿基房の娘・藤原伊子(いし)と結婚した。
 12月1日、源義仲は院御厩別当となり、左馬頭を合わせて軍事の全権を掌握した。
 12月10日には、後白河法皇に「源頼朝追討の院庁下文」を発給させ、形式的には源義仲軍が官軍(朝廷軍)となった。
 1月15日には、征夷大将軍に就任し「武家の棟梁」となった。
 1月21日、源義仲、討死。「源政権」を築いた源義仲が天下人であった期間は11月22日から1月21日の2ヶ月間であり、「60日天下」と呼ばれている。

 巴御前と共に北陸に戻ろうと思ったが、「同じ場所で死のう」と約束していた今井兼平がピンチだと聞き、瀬田に向かい、途中で合流し、松原で2人で自害しようとした寸前、石田三成の先祖に額を射られた。額に矢が当るとR15指定になるので、日曜の放送では、当たる1cm手前で画面を暗転させたが、今日放送の再放送では、射られるシーンそのものがカットされた。(これでは死んだと視聴者に伝わらないのでは?)

■巴御前


 北陸へ落ち延びた巴御前を源頼朝が見つけて鎌倉へ呼び、和田義盛と結婚させ、「和田合戦」で活躍した朝比奈義秀を儲けたというが、朝比奈義秀は1176年生まれで、今(1184年)は9歳であるから、ありえない。
 「和田合戦」の後、巴御前は出家し、91歳で亡くなったという。

※個人的には、源義仲の新妻・藤原伊子(結婚2ヶ月)が気になる。源義仲の死後、源通親の側室となり、曹洞宗の開祖・道元を生んだという。

■梶原景時


 軍奉行(いくさぶぎょう)・梶原景時は、源義経を「天才」ではなく、人智を超えた「軍神(いくさがみ)・八幡大菩薩の化身」だと表現した。モーツァルトが天才であることに気づいた宮廷楽長・サリエリのことを思い出した。

※「梶原景時とサリエリ 」
https://note.com/sz2020/n/nb4a4bd790f01

■源義経


 梶原景時が、源義経のことを「八幡大菩薩(応神天皇)の化身」だと言っていました。八幡大神(神仏習合時代は「八幡大菩薩」)は、武運の神(武神)「弓矢八幡」として武家の崇敬を集めました。
 なお、『平家物語』では、源義経を(丹波国経由だけに?)「鬼神」と表現しています。私なら「鞍馬の小天狗」と言うけどね。(「大天狗」は後白河法皇なので。)
 ちなみに、今日(4月30日)は、源義経の命日である。明日の放送「助命と宿命」で死ぬと思われる源義高の命日は4月26日(狭山市で討死)であった。
※狭山市のイベント
「鎌倉殿の13人」スペシャルトーク in 狭山市(2022年5月3日)
清水八幡宮大祭:毎年5月第3土曜日
・「義高の鯉のぼり
・「義高ウォーク」:2020年5月4日に予定されていたが、コロナで中止

■「一ノ谷の戦い」

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 平家は、平清盛の時、福原に都を置いていたので、周辺の地理を熟知しており、本陣・福原の周囲の戦術上の要所である
・東門(生田口の生田の森)→「東城戸の戦い」
・北門(夢野口、古明泉寺(明泉寺)の2ヶ所)→「夢野の戦い」
・西門(一ノ谷口の一ノ谷城)→「西城戸の戦い」
に布陣しており「生田・夢野・一ノ谷の戦い」と呼ぶべきである。平家の本陣は福原であるので、「福原攻め」でもいいかと。なぜ「一ノ谷の戦い」と呼ぶのかは不明。

 『鎌倉殿の13人』では、三原山を攻撃し、「北の山から攻せめる」と思わせておいて、安徳天皇と平宗盛がいた平家の「一ノ谷」本陣を「鉢伏山」の「蟻の戸」から先に馬を落とし、次に人が下りて攻撃したとした。

※『吾妻鏡』『平家物語』と『玉葉』の違い
https://note.com/sz2020/n/n4ef4c8d95efa

■参考:源義経「腰越状」
然而、幸慶忽純熟而爲平家一族追討、令上洛之手合誅戮木曾義仲之後、爲責傾平氏、或時峨々巖石策駿馬、不顧爲敵亡命、或時、漫々大海凌風波之難、不痛沈身於海底、懸骸於鯨鯢之鰓。

(しかしながら、機が熟して幸運はにわかに巡り、平家一族の追討のために上洛し、まず木曾義仲と合戦して打ち倒した後、平氏を攻め滅ぼすため、ある時は険しくそびえ立つ岩山で駿馬にむち打ち、敵のために命を失う事を顧みず、ある時は漫々たる大海で風波の危険を凌ぎ、身を海底に沈め、骸が鯨の餌になる事も厭いませんでした。)

この「或時峨々巖石策駿馬、不顧爲敵亡命」(ある時は険しくそびえ立つ岩山で駿馬にむち打ち、敵のために命を失う事を顧みず)というのが「鵯越の逆落し」と考えられてきましたが、「三春山の戦い」(丹波城攻め)のことでしょう。

■ドラマには登場しない「一ノ谷の戦い」の主人公・多田行綱


※「「一ノ谷の戦い」の真実 」
https://note.com/sz2020/n/ne86321fd3c04


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