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注釈『光る君へ』の「寛和の変」

「花山天皇の退位と出家」のことを「寛和の変」と呼ぶのは、花山天皇が出家を思い立って1人でしたことではなく、背後に藤原氏がいたという想像からでしょうか?(藤原氏の繁栄に対するひがみから生まれた想像では?)

 花山天皇が、藤原兼家に「朕をばはかるなりけり」と言った意味は、「朕の退位が目的だったのか」と怒ったのではなく、「汝も出家するというので決意したのに、汝はしないのか。朕一人に出家させるのか。寂しいではないか」という意味でしょう。

 いずれにせよ、花山天皇の退位と出家により、政権は、花山天皇+側近(藤原義懐と藤原惟成)から、一条天皇+摂政(藤原兼家)に移りました。
※藤原兼家について、摂政に就任した事だけが注目されているように思われますが、同時に藤原氏の「氏長者」(藤原氏全員の宗主)にも就任していること(『公卿補任』)を忘れてはいけないと思います。

東京大学史料編纂所編『史料綜覧』

1.『光る君へ』が描く「寛和の変」


藤原兼家が宮中で倒れた。
藤原兼家の屋敷に安倍晴明が来ると、藤原兼家は目覚めた。
安倍晴明は「策がある。買う?」と聞いてきた。
藤原兼家は「買う」と答え、言われた通りに眠り続けた。
安倍晴明は「藤原兼家が倒れたのは藤原忯子の霊のせいだ」と広めた。
花山天皇は「藤原忯子の霊が成仏出来ないのは哀れだ」と思った。
藤原兼家が目覚める。
宮中に怪事が頻発。(注1)
安倍晴明は、藤原忯子の霊が藤原兼家屋敷から内裏に移ったと説明した。
花山天皇は、藤原忯子の霊が成仏出来ないのは哀れだとますます思った。
花山天皇は、藤原忯子の霊を成仏させる方法を安倍晴明に聞くと「出家」。
安倍晴明の策を父・藤原兼家から聞いていた藤原道兼は共に出家を誓う。
花山天皇が出家を決意する。(注2)
安倍晴明が決行は6月23日の丑~寅刻(午前1時~午前5時)と指示。
藤原道兼、退位と出家は6月23日と花山天皇に告げる。
藤原兼家は家族を呼び、6月23日の打ち合わせをした。
【当日】藤原道隆と藤原道綱が剣璽を梅壺へ運ぶ。(注3)
【当日】花山天皇、藤原忯子の手紙を忘れるも藤原道兼がせかす。(注4)
【当日】花山天皇、女装し、女性用牛車に乗って内裏を出る。(注5)
【当日】丑の刻、内裏の各門が閉められる。(注6)
【当日】藤原道長、関白・藤原頼忠に譲位を報告する。(注7)
【当日】花山天皇と藤原道兼を載せた牛車、紫式部の屋敷を通過。
【当日】花山天皇と藤原道兼を載せた牛車、安倍晴明屋敷を通過。(注8)
【当日】花山天皇、元慶寺(花山寺)で剃髪(注9)
【当日】藤原道兼は出家せずに去る。(注10)
【朝議】花山天皇が譲位し、藤原兼家が摂政、藤原道兼が蔵人頭に就任。

2.注釈


(注1)宮中で怪事が起きたのは、藤原忯子の霊の仕業ではなく、藤原元方の霊の仕業だと考えられた。〔『栄華物語』〕
(注2)花山天皇は、安倍晴明に言われるまでもなく、青道心から出家したいと思い、花山寺の師僧・厳久(源信の弟子)の講義を受けていた。〔『栄華物語』『愚管抄』〕
 出家を決意したのは、藤原兼家が持っていた扇子に「妻子珍宝及王位臨命終時不随者」と書かれていたからだという。〔『安倍晴明物語』〕
(注3)「剣璽」とは、「三種の神器」のうちの草薙剣と八尺瓊曲玉のこと。花山天皇の部屋から皇太子の部屋「桐壺」(『愚管抄』では「凝花舎」)へ移した。八咫鏡は常に内侍所に置かれていた。
 『大鏡』には、藤原兼家が遷したとあり、『本朝通鑑』には花山天皇が授け、天皇としての心構えも教えたとある。
(注4)『光る君へ』では「手紙は既に元慶寺に移した」としたが、『大鏡』では「空泣き」(嘘泣き)して引き返すのを思い止めさせたとある。
(注5)花山天皇は、日頃から「出家したい」と言っていた。花山天皇が退位すると失脚する側近の藤原義懐と藤原惟成は、花山天皇を見張らせていた。そうでなくても、天皇が内裏から出ることは難しかった。
 同行者は、
・藤原兼家〔『日本紀略』『本朝通鑑』〕
・藤原兼家と厳久〔『愚管抄』〕
(注6)「天皇が消えた」と騒ぎになった時、「門は閉まっているので、外へは出られない。内裏内を徹底的に探せ」と指示されたようだ。元慶寺までは遠い(6㎞)ので、馬で追いかければ牛車に追いつける。ようするに時間稼ぎである。
 夜が明けて明るくなっても見つからないので、「厳久なら居場所を知っているかも?」と元慶寺へ行くと、既に剃髪した花山天皇がいたという。〔『栄華物語』〕
(注7)〔『愚管抄』〕
(注8)安倍清明屋敷の前を通る時、安倍晴明が「花山天皇が退位したと星に出ている」と叫んだという。〔『本朝通鑑』『大鏡』『安倍晴明物語』〕
(注9)剃髪を担当したのは、藤原師輔の十男、藤原兼家(藤原師輔の三男)の弟にして、寛和元年(985年)に天台座主(第19世)に就任したばかりの尋禅である。〔『日本紀略』〕
 尋禅が天台座主に就任した時から、延暦寺は藤原氏と強く結びついて世俗化した。
(注10)『光る君へ』の藤原兼家は「御坊、あとはお頼み申す。おそばにお仕えできて、楽しゅうございました」と言って去ったが、『大鏡』『愚管抄』『本朝通鑑』には、「父・藤原兼家に出家前の姿を見せ、併せて花山天皇が出家したことを報告する」と言って寺を出たとある。


■『日本紀略』

■『本朝通鑑』

■『大鏡』

■『栄華物語』

■『愚管抄』

■『安倍晴明物語』




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