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『鎌倉殿の13人』42「夢のゆくえ」の再放送を見て

 前回の記事「『鎌倉殿の13人』(41)「義盛、お前に罪はない」の再放送を視聴」に対し、本も出版されているプロのライターさんが、私の記事をリンクして、「大河なんてあくまで「史実を基にしたフィクション」なので、絵的に面白ければ正義だと思いますよ。そもそも、「史実じゃない、史実じゃない」とか文句言うなら、途中の大江広元(栗原英雄)の無双シーンとか、あれ、なんだよwwwwwww」と草を生やしておられました。私の大河ドラマの楽しみ方は「脚本家が史実を史実を使ってどう解釈するか」であり、「絵的に面白ければ正義(史実を曲げてもいい)」とは思っていないので、この方とは議論しても平行線です。(ちなみに、大江広元の無双シーンについては、大江広元(史実では中原広元)が無双か、そうでないか、どこにも書いてないので批判していません。史書に「無双ではなかった」と書いてあれば、「史実じゃない」と書いた可能性はあります。)

 前回の見所は、私としては、「和田義盛の死と、それによる北条泰時と源実朝の覚醒」でした。和田義盛の敗因は、当時から「三浦義村の裏切り」と考えられていたようです。「関ケ原の戦い」の小早川秀秋のような存在だったのでしょうか? 『鎌倉殿の13人』では、時代考証の学者の入れ知恵なのか、「三浦義村は最初から裏切っていた」と新説を採用しましたが、これでは北条泰時が三浦義村の娘と離婚した理由を説明できません。そこで脚本家は、自分に都合のいいように史実を曲げ、「北条泰時は三浦義村の娘と離婚していない」とし、三浦義村の娘が北条泰時に水をかけて、北条泰時の覚醒の一因としました。裏切り者・三浦義村のご子孫は、「よくやった!」と鼻高でしょうけど、当時の妻(安保実員の娘)のご子孫は、「脚本家に我が家の祖先が消された。手柄まで奪われた」と怒っているかもしれません。(北条泰時の覚醒は、三浦義村の娘と離婚後であり、安保実員の娘が水をかけたとは思えませんが、安保実員の娘が北条泰時の覚醒に関与したことは確かだと思われます。)

 あと、前回の記事の「史実じゃない」には、歴史雑誌の「和田合戦」の記事を執筆された方が、『吾妻鏡』に載っていない事を載っているとして、『鎌倉殿の13人』の脚本をよいしょしていることも含めています。日本人の知的レベルはこんなにも低下してしまったんでしょうか? 東大の法学部を出て法務大臣にというのはエリートコースであり、適材適所だと思いますが、信じられないことを言う。

 さて、今回のドラマで最も違和感があったのは、源実朝が陳和卿に唐船を造るよう命じた直後の北条時房と北条義時の会話です。伊豆へ行って、農作物の収穫高を検分してきた北条時房が、
北条時房「伊豆で父上の噂を聞きました。膝を悪くして、近頃は歩くこともままならないという話です。見舞いの品でも持って、改めて覗いてこようと思っています」
北条義時「・・・」
北条時房「やめておきます」
北条義時「太郎に行かせよ」
北条時房「かしこまりました」
という会話です。ここは、
北条義時「どうやって唐船の建造を中止、もしくは失敗させるか」
北条時房「トウに相談してみます」
という会話でなければなりません。もし、父親の病状の報告であったのなら、次のシーンは、北条泰時が北条館の北条時政を訪問するシーンでなければなりません。北条泰時が北条館の北条時政を訪問するシーンをラストシーンにしたいのであれば、その直前に、
北条時房「唐船の件、上手くいきました。ところで、伊豆の父上の噂を聞きました」
と入れるべきです。北条泰時に訪問を命じる会話から、北条泰時の訪問まで半年はかかっていて奇妙です。

建保4年(1216年)6月15日 源実朝、陳和卿と対面。
建保4年(1216年)11月24日 源実朝、陳和卿に唐船を造るよう命ず。
              北条時房と北条義時の会話。
建保5年(1217年)4月17日 唐船、完成するも海に浮かばず。
? 北条泰時、北条時政に会いに行く。

「北条時政はこの後78年の生涯を閉じた、鎌倉を追われてから10年後のことである」(長澤まさみ)
このナレーションは嘘です。
北条時政が亡くなったのは建保3年(1215年)1月6日です。源実朝が陳和卿と対面する前に亡くなっています。(牧の方(りく)がいないのは、北条時政が死んだので、京都へ行ったためです。)「唐船の建造と北条時政の死とどちらが先か?」という問題は、テストには出ないでしょうが、出たら、『鎌倉殿の13人』の視聴者は間違えるかもね。
以上、今回は後鳥羽上皇の生霊に始まり、北条時政の死霊に終わる幽霊話でした。

■『吾妻鏡』の要約(公式サイトより)

承元4年(1210)11月22日条

御持仏堂で聖徳太子の御影(南無仏像:2歳のときの聖徳太子が緋ひの裳もを着けて合掌する姿の像)が供養されました。これは源実朝の日頃からの祈願によるものとのことです。

建保2年(1214)6月3日条

諸国では日照りを愁うれえていました。このため、源実朝は栄西に依頼して雨乞いのために自ら八つの戒律を守り、法華経を転読しました。

建保2年(1214)6月13日条

将軍家領の年貢について、源実朝が「この秋から三分の二を免除する。おおむね毎年一箇所を順番に免除するように」と命じたようです。

建保3年(1215)1月8日条

伊豆国から鎌倉に飛脚が到着。今月6日の戌の剋(午後7時~9時)に北条時政が亡くなりました。

建保4年(1216)6月8日条

陳和卿が鎌倉に到着しました。陳和卿は東大寺の大仏を造立した宋の技術者で、東大寺の供養の際には対面を望む源頼朝の誘いを断りましたが、実朝に拝謁するため鎌倉を訪れました。

建保4年(1216)6月15日条

源実朝陳和卿を御所に召して対面しました。陳和卿は三度拝礼するとたいそう涙を流し、困惑する実朝に「前世において、あなたは宋朝の医王山の長老で、私はその門弟でした」と語りました。

陳和卿の話を聞いた源実朝は、去る建暦元年(1211)6月3日の丑の剋(午前1時~3時)に眠っていた際に、一人の高僧が夢の中に現れて同じ内容を告げたと答えました。

建保4年(1216)11月24日条

源実朝が、前世に住んでいた医王山に参拝するために中国へ渡航することを思い付き、陳和卿に唐船を造るように命じました。北条義時大江広元がしきりに実朝を諫いさめたものの受け入れられず、造船が決定したようです。

建保5年(1217)4月17日条

陳和卿が唐船を造り終えました。そこでこの日、数百人の人夫を御所家人から差し出させ、唐船を由比浦に浮かべることになりました。

陳和卿の指示に従い、午の剋(午前11時~午後1時)から申の剋(午後3時~5時)の終わりまで力の限り船を引きましたが、海に船を浮かべることができませんでした。

唐船を海に浮かべる作業を見守っていた源実朝ですが、頓挫したため御所に帰りました。船はそののち、むなしく砂浜で朽ちたようです。

建保5年(1217)6月20日条

源頼家の息子である公暁が、園城寺から鎌倉に到着しました。

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