欠史八代ー「倭国大乱」と卑弥呼ー
── 竹内睦泰(むっちゃん)先生の他界からはや4年。
改めてご冥福をお祈り申し上げます。──
■「倭国大乱」の頃
107 「倭國王帥升等、獻生口百六十人 、願請見」(『後漢書』)
150~200の間の数年(数十年?) 「倭国大乱」
170 この頃、卑弥呼、生まれる。
184 【大陸情勢】黄巾の乱
200 この頃、「倭国大乱」が終わり、弥生時代から古墳時代へ移行
①日本人のDNAが弥生人型から古墳人型に変化
②宗教及び祭器の変更(「鬼道」へ。銅鐸を破壊→銅鏡の使用)
207 【大陸情勢】白狼山の戦い(騎馬民族・烏桓を破り中国北部を統一)
208 【大陸情勢】赤壁の戦い(飢餓と疫病)
211 【大陸情勢】潼関の戦い
212 【大陸情勢】第一次濡須口の戦い
220 【大陸情勢】魏(220~265)建国
221 【大陸情勢】蜀(蜀漢。221~263)建国
222 【大陸情勢】呉(222~280)建国
239 卑弥呼、魏に使者を派遣。「親魏倭王」の封号と金印を賜る。
247 卑弥呼、狗奴国と交戦(【大陸情勢】魏、使者・張政を派遣)
248 卑弥呼死す。
男王を立てるがまとまらず。卑弥呼の宗女・台与を立てる。
■「倭国大乱」の規模 ─「合戦」か「混乱」か─
説① 全国規模の合戦(倭国と他国の合戦)
説② 倭国(北九州の30ヶ国連合)の内乱
説③ 倭国(連合国家)の新大王選び(論戦であって合戦無し)
■『魏志倭人伝』の記述
※卑弥呼(ひみこ) 建寧3年(170年)頃~正始9年(248年)
『魏志倭人伝』等によると、倭人の国(北九州)には、約30ヶ国の男王が統治していた小国があり、2世紀後半に小国同士の抗争「倭国大乱」が起きて乱れた。そのため、国王たちは協議して、邪馬台国の女王・卑弥呼(日巫女)を大王とする連合国家「倭国」としたところ、内乱が収まって安定した。この卑弥呼は、鬼道に仕え、よく大衆を惑わし、その姿を見せなかった。また、生涯夫を持たず、政治は弟の補佐によって行なわれた。239年には建国19年後の魏に使者を派遣し、「親魏倭王」の金印が贈られた。247年に邪馬台国が南の狗奴国と交戦した際には、魏は、使者・張政を派遣し、詔書と黄幢を贈り、励ましている。
卑弥呼が死ぬと、男王が立ったが、再び内乱状態となり、千余人が誅殺し合った。卑弥呼の宗女・台与(13歳)を女王として立てた結果、倭国は再び安定した。
卑弥呼も台与も記紀には出てこない。女王といえば、神功皇后と推古天皇くらいか。『日本書紀』では、神武天皇の建国を紀元660年に設定しているようで、「倭国大乱」(2世紀後半)の時期は、神功皇后の時期にあたると思われる。
『日本書紀』の年代設定を正すと、「倭国大乱」は「欠史八代」の時期にあったと思われ、卑弥呼=倭迹迹日百襲姫だという。
■「欠史八代」(第2代綏靖天皇~第9代開化天皇)
『日本書紀』においては妻子の名のみの記述で、業績不明(『日本書紀』は1天皇で1冊なのに、この8人の天皇は8天皇で1冊)な第2代綏靖天皇から第9代開化天皇の8人の天皇については、その存在が疑問視されており、「欠史八代」と呼ばれています。
不思議なのは、初代神武天皇と第10代崇神天皇の名が共に「ハツクニシラススメラミコト」だということです。すなわち「初めて国を治めた天皇」が2人いるのです。
【解釈】
①開化天皇までは倭国の大王、崇神天皇からは大和国の国王で、初代日本国天皇は天武天皇。
②初代神武天皇は日本建国の父。第10代崇神天皇は「倭国大乱」後(倭国併合後)の新生日本国の初代天皇。
■孝霊天皇(大日本根子彥太瓊天皇 前290~前215)
■孝元天皇(前290~前215)
邪馬台国の卑弥呼=倭迹迹日百襲姫(孝霊天皇の娘)だとすると、倭迹迹日百襲姫が生存していた時代の3つの戦乱の総称が「倭国大乱」だという。
・山背の武埴安彦(開化天皇の弟)、大坂の妻・吾田姫の反乱の鎮圧
・武渟川別による出雲国の出雲振根の誅殺
・弟・吉備津彦による吉備国の温羅の討伐
■武埴安彦の乱
『日本書紀』(巻5)「崇神天皇」の崇神天皇10年(前88年)9月27日条によれば、「四道将軍」大彦命(武埴安彦の異母兄弟)は、北陸へ向かう途中、奈良県と京都府の県境で、崇神天皇の暗殺計画の存在を示す歌(崇神天皇は、命を狙われているとも知らないで、女性と遊んでばかりだ)
瀰磨紀異利寐胡播揶 飫迺餓鳥塢 志齊務苔 農殊末句志羅珥 比賣那素寐殊望(御間城入彦(ミマキイリビコ。崇神天皇)はや 己が命を 死せむと 窃(ぬす、盗)まく知らぬに 姫遊びすも)
一書に、
於朋耆妬庸利 于介伽卑氐 許呂佐務苔 須羅句塢志羅珥 比賣那素寐須望(大き戸より 窺ひて 殺さむと すらくを知らに 姫遊すも)
を聞き、引き返して崇神天皇にこのことを報告した。そして倭迹迹日百襲姫(卑弥呼。三輪山の大物主の妻)の占いにより、クーデター(内乱=「倭国大乱」)を計画しているのは、武埴安彦と、彼の妻・吾田姫であることが分かった。2人が大和へと攻め込むと、待ち伏せされ、武埴安彦は大彦と彦国葺(和珥臣祖)に、吾田姫は「四道将軍」吉備津彦に討ち取られた。こうして「倭国大乱」は鎮圧された。
■参考動画:第73世武内宿禰・竹内睦泰
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