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【幻想紀行】二俣城から清瀧寺へ

【注意】この記事は、「幻想紀行 行ったつもりで書いてみた」になります。実際と異なるかもしれません。実際に行けば、もっとましなレポを書けると思うので、交通費のサポート、宜しくお願い致します。

 信康公350回忌の時は、築山殿の研究で盛り上がりました。
 昭和53年(1978)10月15日(陰暦9月15日)の信康公400回忌の時は涙雨が降りました。
 さて、今年はどうなる? 今年は444(死死死)回忌なので、なんとしても行きたい!!!!

 供養&現地調査をして、下の「かわせれいと旅行チャンネル」さんのような動画を撮ってきたいです。(この動画、二俣城と鳥羽山城についてはいい動画だと思いますが、清瀧寺については物足りないです。肝心の「信康公火葬場跡」「信康廟」が写されていないのです。)


 川と川の合流点───下流から遡ってきた人にとっては「二俣」、上流から下ってきた人にとっては「落合」である。また、ぶつかり合う音が大きいので「百々」「等々力(轟)」などとも言う。

 静岡県浜松市天竜区二俣町は、浜松平野の北端にあり、徳川氏と武田氏が取り合った二俣城がある。二俣城自体は山の上にあり、天竜川と二俣川という天然の水濠を持つ難攻不落の城である。
 ただ、東麓の二俣の町は、何度も二俣川の氾濫による水害に苦しめられていた。そこで、袴田喜長が二俣川の流路を変えて、人々を救った。

 まずは「幸福の天使の羽根の椅子」がある天浜線二俣本町駅を目指す。
①新幹線でJR掛川駅へ。天浜線掛川駅から電車に乗ってヱヴァの「第三村駅」こと天浜線天竜二俣駅を越え、次の天浜線二俣本町駅で下車。
②新幹線でJR豊橋駅へ。天浜線掛川駅から電車に乗って天竜川を渡った最初の駅である天浜線二俣本町駅で下車。
③新幹線でJR浜松駅へ。5月1日にオープンしたことに由来する駅ビル「May One」を出て、遠鉄百貨店を越えて遠鉄浜松駅へ。赤電に乗り、終点西鹿島駅で下車。そこから天浜線に乗り換えるか徒歩で「鹿島の花火」で有名な鹿島(「上島」の転嫁)で天竜川を渡り、不気味なトンネルを潜って天浜線二俣本町駅へ。
 暗くなってから赤電に乗ると、「きさらぎ駅」へ連れていかれそうでスリリング!

 「竜の顔に見える信号機」(「ナニコレ珍百景」にて「No.224 龍の顔が現れる信号機」として紹介済)の右(南)の山頂に鳥羽山城、左(北)の山頂に二俣城がある。
「二俣城址入口」碑を左へ。黙々と山を登っていく。(神社の参道「男道」(上の動画でいう「ショートカット」)の方が急だが近い。)

  坂道の途中、右手側に「二俣城址入口」碑、左手側に「二俣城入口」の看板があるので、ヘアピンカーブを曲がり、旭ヶ丘神社の参道(石段)を登ると本丸と北曲輪の間に到着する。車の場合は、「二俣城址入口」碑を無視して登ると右手に駐車場がある。音声ガイダンス付の周辺図がある。

 本丸の隅に天守台がある。天守は岡崎三郎信康(地元では、徳川家康の長男・松平三郎信康のことをこう呼ぶ)がいた時には無かったものである。天守は消失しているので、光月堂の「二俣城もなか」と重ねて撮影(あるいは合成)してみる。

 城山稲荷神社があるのが二ノ丸で、旭ヶ丘神社があるのが北曲輪である。
 岡崎三郎信康は、本丸の「生害松」の根元で切腹したとも、監禁されていた二ノ丸奥書院の松ノ間で切腹したともされる。(多分、前者は観光用で、後者が正しいかと。奥書院の遺構は極楽寺にある。)

 二俣城から岡崎三郎信康の菩提寺・清瀧寺へ向かう。この細い散策路は車では無理である。(蛇や虫がいない冬期の散策をお勧めする。)途中、「信康公火葬場」(最初に葬られた小松原長安院跡)がある。岡崎三郎信康の菩提寺は、今向かっている清瀧寺であるが、墓や供養碑は清瀧寺を含め、全国10ヶ所にある。
「遺灰を分けてもらうだけだから、建てたい人には便利だったのかな」
と思いながら通り過ぎて京都知恩院の末寺であった清瀧寺の境内に出る。
「お寺を参拝する時は、山門を通って入るのが礼儀」
と言われている。これでは不作法になる。この点も含め、
 二俣本町駅→二俣城→清瀧寺→天竜二俣駅
よりも、
 天竜二俣駅→清瀧寺→二俣城→二俣本町駅
の方がいいと思った。

○本堂
・本尊は阿弥陀如来。
・松平信康の木像、清水一馬作徳川家康の木像(1792年)、歴代将軍の位牌が安置されている。
・資料展示コーナーがあり、武田軍の甲冑が展示されていた。(「これやばい」と思ったが、寺に伝わった物ではなく、奉納品だという。奉納では、断りたくても、断れない。)

○境内
・寿昌梅(原木は信康追悼のために建てた松連寺(現・京王百草園))
・徳川家康手植えのミカン(原木は駿府城公園)
・井戸櫓(復元)
・十王堂は信康堂に変わっている。
・観音堂は「本田宗一郎ものづくり伝承館」に変わっている。
(世界で有名なHONDAの創業者・本田宗一郎は、二俣出身。)

○信康公廟所
・一の門を抜けた右側に、向かって左から、
「正心院殿堅誉良中居士」 三方原で討死した青木吉継
「桂光院殿了知居士」   三方原で討死した中根正照(元・二俣城主)
「了源院殿忠世日脱大居士」信康切腹当時の二俣城主だった大久保忠世
「華容院殿一雲行心居士」 殉死した小姓・鈴木於初
の墓がある。

※鈴木於初:吉良於初、吉良初之丞とも。信康の「御座直し」(寵童)。五井松平忠次の家老・加藤忠兵衛の従兄弟。5人の小姓の内、殉死したのは鈴木於初だけだという。なお、信康従臣も殉死せず、30人は内藤家長に付けられ、他は浪人になったという。

・向かって左側に歴代住職の無縫塔(卵塔)
・朱塗りの二の門の奥の五輪塔は、上の絵図では雨ざらしであるが、現在は覆屋が建てられている。
 五輪塔の中央には「清瀧寺殿達岩善通大禅定門」、右側面には「三州岡崎松平三郎信康」、左側面には「天正七己卯九月十五日」と彫られている。

 寺名の由来となった「葵の滝」の横には諏訪神社がある。諏訪神社があるということは、武田信玄が領地としていた証拠のように思われがちであるが、諏訪湖(もしくは諏訪大社の「天流水舎」)を水源とする天竜川沿いには水神として諏訪神社が武田信玄とは関係なく祀られている。ここの諏訪神社は、今川家家臣の二俣氏が建てたという。

【付け足し】
 
 電車の場合は新幹線の駅付近の吉田城、掛川城、浜松城と組み合わせてもいいし、車の場合は、徳川家康が二俣城を後略するために築いた5つの砦(鳥羽山砦(鳥羽山城)、毘沙門堂砦、蜷原砦、和田ケ島砦、道々砦(大平城))と極楽寺を組み合わせてもいいと思う。

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