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「神君伊賀越え」の重要人物

考えてみると、家康ほど人運のいい男もまれであろう。かれのこの冒険には、かれのまわりの者がそれぞれ得手々々によって機能的にうごいた。竹もそうであり、商人の茶屋もそれなりに働く。血路をひらくのは武辺者の本多平八郎がひきうけ、山賊の鎮撫には伊賀者たちが働く、といったふうに、一つの機械(からくり)が作動するようにその部品々々が見事に回転した。(中略)梅雪は、思いあわせてみると、家康の替え玉として死ぬためにこの上方旅行についてきたようなものであった。その意味では、梅雪入道でさえ、家康のこの脱出行のなかで、その遺志とはかかわりなく機能的に働いたことになる。

司馬遼太郎『覇王の家』「脱出」

■「神君伊賀越え」の重要人物

・竹(長谷川秀一)
・井伊直政
・茶屋四郎次郎清延
・本多平八郎忠勝
・服部半蔵正成
・穴山梅雪
・本多正信
・角屋七郎次郎秀持


■竹(長谷川秀一)

■井伊直政

十年五月、東照宮、京都御遊覧のとき扈従し、六月二日、織田右府ことあるよし、告來るにより、和泉國を歸御のとき、其路次にして、一揆蜂起すといへども、長谷川竹秀一等と計策をめぐらし、長途つゝがなく還御ありしかば、その勞を賞せられ、孔雀の尾にて織たる御陣羽織を賜ふ。

『寛政重修諸家譜』「直政」

一、五月、権現様、御上洛。泉州堺、御見物之節、致供奉候。六月、明智日向守、逆乱に付、従泉州、経間道、御帰国之途中、所々、郷人、一揆致蜂起候処、直政、長谷川竹丸与計策を運し、依之、於宇治田原、山口甚介、於信楽、多羅尾四郎兵衛、尽無二之忠節。其外、国人、奉守護、無御恙、御帰国に付、御大事之長途、尽勤労之旨、上意に而、孔雀之尾を以織たる御陣羽織、致拝領候。

『井伊家系譜』「直政」


■茶屋四郎次郎清延


■本多平八郎忠勝


■服部半蔵正成


■穴山梅雪


■本多正信


「正信が計ひにて宇治路ひらけて、徳川殿、事故なく、終に三河国に帰り入らせ給ひぬ」(新井白石『藩翰譜』)

其の後、又、加賀の国に趣き。小山の辺り山中といふ所に至りて留り住む。天正十年の春、武田四郎亡ひし後、徳川殿より仰せありて、正信を召さる。「織田殿に伴ひ給ひ、御上洛あり」と聞えしかば、正信、加賀国を立って大津の宿に至る。「殿は和泉の堺に趣かせ給ふ」と聞きて、「頓(やが)て彼の処に参らん」とせし程に、信長、明智が為に失せ給ひ、畿内、悉く乱る。正信が計ひにて、宇治路ひらけて、徳川殿、事故なく、終に三河国に帰り入らせ給ひぬ。

新井白石『藩翰譜』第11「本多②」。元禄15年(1702年)成立。
https://dl.ndl.go.jp/pid/780525/1/58

■角屋七郎次郎秀持


 伊勢国から三河国大浜までの船を手配して、徳川家康一行を助けた伊勢商人・角屋七郎次郎秀持は、徳川家康から、「分国中諸役免許」の朱印状を授かりました。角屋秀持は、朱印船「八幡丸」を造り、「小牧・長久手の戦い」では、徳川軍の陣船に加わりました。慶長5年(1600)9月10日、伏見城に招かれた角屋秀持に対し、徳川家康は、「汝の持ち船は子々孫々に至るまで日本国中、いずれの浦々へ出入りするもすべて諸役免許たるべし」という「廻船自由の特権」を与えたそうです。

抑先祖・小川孫三儀は、勢州・白子の者に御座候処、家康公様、天正年中に及び候節、泉州・堺より、伊賀越勢州白子之御移り遊ばせられ候節、左右の敵軍多く、既に御大切の砌、小川孫三作仕り、四月頃なれば、麦刈込居り候処、家康公様、御欠込遊ばせられ、仰せられ候は、「只今、後より、大勢敵軍、追かけ来る間、囲って呉れ」と仰せられ候。「畏り奉り候」と申し、麦の内え御入れ申し、麦、積掛け居り候処、大勢人込み、「只今、是れえ、家康公、欠込み候。何国に隠し置き候哉。有様に白状致す可し」と厳敷く御尋ね有り。孫三答えて、「左様なる御方は、是れえは一向見え申さず」と申候得は、大勢、家内え入込み、「慥(たしか)に是れえ欠込み候に相違無し」と、家内、明細に詮儀致し候得共、「一向、尋ねらず、扨々(さてさて)不思議なる事」と申し居り候処、孫三申候は、「左様仰せられ候得は、先刻、私の所、御一人裏道え御通りなされ候。左様なれば、其御方にて候哉」と申し候得は、「さあらは、一刻も早く追欠て参る可し」と大勢、一同に罷出で候。夫より暫く四方を考え居り候内、空、早や日も暮に及び御大切の砌、小川孫三御頼み遊ばせられ、白子「若松の浦」より夜船にて尾州・床鍋と申す所え御着船なし奉り、夫より三州・大崎まで御送り奉り候様、重ねて御上意遊ばせられ候に付、知田部上半田村より、陸地、御供仕り、御恙無く、三州・大崎より駿河まで御送り奉り。是迄御越し遊ばせられ候に付、一先づ私儀は、勢州へ罷帰り申し度御願上げ奉り、罷帰り候処、其後、勢州・神戸の御城主・織田三七殿、家康公様御送りの議に付、色々御吟味強く、曲事も仰付られ候程の御詮議厳しく候得は、難儀に及び候故、田畑、財宝打ち捨て、夜逃げ仕り。夫より段々家康公様御尋ね申し、右の趣き、御上聞に達し奉り候得は、有難き御憐愍を蒙り奉り、御分国の内、駿州・藤枝東芝間の節、「此地、勢州・白子と心得、住居仕り候」様仰付けさせられ、有難く家作仕り、「新白子町」と御名附、御取立遊ばせられ、有難く、親類共、追々尋ね参り、此地に住居仕り罷在候然処、家康公様、其後、孫三儀、御尋ね下され、右、褒美の為、「何なり共、望み次第、望むべし」と仰せられ、難有く候得共、「何にても望み候儀、御座なく候」と申上げ奉り、其時代、軍役等厳しく候に付、諸役の儀、御除き下され候はば、諸役御免の御朱印、天正十四年八月十四日、孫三え下し置かれ、難有。其節より頂戴仕り、罷在り候。之に依って先年、御公方様、御上洛遊ばせられ候節、御登り、小川、内田御目見得仕らず候に付、還御の御節、御目見え仕り度き旨、江戸表え罷下り、酒井雅楽忠世様え御願上げ奉り候処、則ち、御添状、井上主計頭様まで遣はせられ、主計頭様、御披露なし下され、恐れながら御肴献上奉り、御目見え仕り候。之に依って、御代々御名代様、御上京、御上下共に、小川、内田御目見え仕り候。尤も後々の御印の為、雅楽頭様よりの御添状、主計頭様より私先祖へ下し置かせられ、今に頂戴仕り罷在り候。   以上。

「小川先祖古来由緒の事」


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