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『平家物語』に見る「三種の神器」の草薙剣と八咫鏡


影が真下に出来るピーカン。まぶしいと怖い顔になる><

 次に宝剣と申すは、神代より伝はれる霊剣二つありと見えたり。天叢雲剣天のはば切の剣なり。
 天の叢雲剣は、代々帝の御守即ち宝剣これなり。天武天皇の御宇、朱鳥元年六月に尾張国熱田の社に籠められたり。
 また、天のはば切の剣は本は、十柄の剣と申ししが、大蛇を斬りて後は、天のはば切の剣と号す。大蛇の尾の名を「はば」といふ故なり。「をろち」とも名づく。彼の剣、後には大和国石上布留の社に納まれり。
 昔、素盞鳴尊は、出雲国におはしける時、彼の国の簸の川上の山に大蛇あり。尾、首共に八つあり。八つの尾、八つの谷に蔓れり。眼は日月の如し。背には苔むして諸の木草生ひたり。年々人を呑む。親を呑まれては、子、悲しみ、子を呑まれては、親、悲しむ。村南、村北に哭する声絶えず。国中の人種、皆、取り失はれて、今は山神の夫婦・手摩乳脚摩乳ばかり残れり。一人の娘あり。稲田姫と名付けて生年八歳なり。これを中に置きつつ、泣き悲しむ事限りなし。尊、燐み給ひて、由を「如何に」と問ひ給ふ。手摩乳、答へて曰く、「我に最愛の娘あり。稲田姫と申すを、今夜、八岐の大蛇の為に呑まれん事を悲しむなり」と申しければ、尊、不便に思し召し、「娘を我に得させば、大蛇を討ちてとらせん事は如何に」と宣へば、手摩乳、脚摩乳大いに悦ぶ色見えて、「大蛇をだにも討ち給はば、娘を進らせ候ふべし」と申しければ、尊、大蛇を討ち給ふべき謀(はかりごと)をぞ為し給ひける。床を高く掻き、稲田姫を厳しげに装束させて、鬘(かずら)に湯津爪櫛を差して立てられたり。四方には火を焼き廻らして、火より外に甕に酒を入れて八方に置く。夜半に及びて、八岐大蛇、来りつつ、稲田姫を呑まんとするに、床の上にありと見れども四方に火を焼き廻らしたれば、寄るべき様なかりけり。時移るまで能く見れば、稲田姫の影、甕の酒に映り見えたりけり。大蛇、これをよろこび、八つの甕に八つの頭を打ち漬して、飽くまで酒を飲みてけり。余りに飲み酔ひて、前後も知らず臥したりける。
 尊、剣を抜き持ちて、大蛇を寸々に切り給ふ。その八つの尾に至りて、剣のかかはる処あり。怪しみてこれを見給へば、剣の刃、白みたり。尾を裂きのけてこれを見るに、一つの剣あり。「これ最上の剣なり」とて、天照大神に奉る。「天叢雲剣」と名づく。この剣、大蛇の尾にありし時、黒雲、常に覆ふ。故に「天叢雲剣」と名付けたり。この大蛇は尾より風を出だし、頭より雨を降らす「風水龍王」の天降りけるなり。
 手摩乳は、姫の助かりたる事を喜び、尊を婿に取り奉る時、円さ三尺六寸のを引出物に奉る。稲田姫、尊に参りし時、鬘に差しし湯津爪櫛を後ろ様に投げて、始めて尊に参り給ふ。「別れの櫛」とはこれなり。尊は出雲国に宮作りして稲田姫を妻室とし婚合し給へり。兄達と不和の事、悪しくや思し召されけん、蛇の尾より取り出でたる「天叢雲剣」、並びに「天のはば切の剣」、手摩乳が婿の引出物の「鏡」、以上三種を天照大神に奉りて、不孝は赦され給へり。彼の婿の引出物の鏡は、今の内侍所これなり。
 人皇第四代の帝・懿徳天皇の御時、天より三つの鏡降れり。その内一つは婿の引出物の鏡なり。二つには天照大神の天の岩戸に閉ぢ籠らせ給ひし時、我が形を鋳移し留めて、「子孫この鏡を見ては我を見るが如くに思へ」とて、摸(も)し給へる鏡なり。始め鋳給へるは「小さし」とて、又、鋳直し給へり。始めの御鏡は、紀伊国の日前宮と祝はれ給へり。後の御鏡は、伊勢国二見の浦に一里ばかりの沖に岩に副うて御座すが、塩の満つる時は岩の上にあがり、塩の干る時はさがりて岩に副うておはします。海のなぎたる時は船にておし渡りて、先達ありて拝むなり。婿の引出物の鏡は内侍所なり。帝の御守にて大内に御座すを、第十代の帝・崇神天皇の御時、「同殿然るべからず」とて、殿を作り、鏡を鋳て、新しきを御守とし、古きをば天照大神に返し参らせ給ひけり。鋳移し給ふ御鏡も、作り替へられたる宝剣も、霊験は少しも劣り給はず。
 然るに、十二代の帝・景行天皇四十年の夏、東夷多く御政を背きて関東静まらず。帝の第二の皇子・日本武尊、御心も猛く御力も勝れておはしければ、彼の皇子を遣はして平げしに、同年冬十月に道に出でて、先づ大神宮に参り給ふ。やまと姫の尊をして、天皇の命に随ひて東攻めに赴く由を申されたりければ、崇神天皇の時、返し置かるる天叢雲剣を出だし給ふ。
 日本武尊これを帯して東国に下り給ふに、道に不思議あり。出雲国にて素盞鳴尊に害せられたりし八岐大蛇、天降り、無体に命を失はれ、剣を奪はれし憤り散ぜず、今日本武尊の帯して東国に赴き給ふを、せき留めて奪ひ返さんその為に、毒蛇となりて不破の関の大路を伏し塞ぎたり。尊、事ともし給はず、躍り越えてぞ通られける。
 尾張国に下りて、松子の島といふ所に、源大夫といふ者の家に泊り給へり。大夫に娘あり。名を岩戸姫といひけり。眉目貌好かりければ、尊これを召して幸し給ふ。一夜の契り深くして互に志浅からず。かくてもあらまほしく思し召しけれども、「夷を攻めに下る者が女に付きて留まらん事、悪しかりなん」と思はれければ、「帰らん時、又」と憑みて、頓て打出で給ひけり。
 駿河国富士の裾野に到る。その国の凶徒、「この野に鹿多く侯。狩して遊ばせ給へ」と申しければ、尊、即ち、出でて遊び給ふに、凶徒等、野に火を着けて尊を焼き殺し奉らんとしける時、帯き給へる天叢雲剣を抜きて草を薙ぎ給ふに、苅草に火付きて劫かしたりけるに、尊は「火石」「水石」とて二つの石を持ち給へるが、先づ水石を投げ懸け給ひたりければ、即ち、石より水出でて消えてけり。又、火石を投げ懸け給ひければ、石中より火出でて凶徒多く焼け死にけり。それよりしてぞ、その野をば、「天の焼けそめ野」とぞ名付けける。叢雲剣をば「草薙剣」とぞ申しける。尊、振り捨て給ひし岩戸姫の事忘れがたく、心に懸りければ、「山復(かさ)なり、江復(かさ)なるといふとも、志の由を彼の姫に知らせん」とて、火石、水石の二つの石を、駿河の富士の裾野より、尾張の松子の島へこそ投げられけれ。彼の所の紀大夫といふ者の作れる田の北の耳に火石は落ち、南の耳に水石は落つ。二つの石留まる夜、紀大夫の作りける田、一夜が内に森となりて、多くの木生ひ繁りたり。火石の落ちける北の方には、如何なる洪水にも水出づる事なく、水石の落ちたる南の方には、何たる旱魃にも水絶ゆる事なし。これ火石、水石の験なり。
 尊はこれより奥へ入り給ひて、国々の凶徒を平げ、所々の悪神を鎮め、同五十三年、尾張へ帰り、又、岩戸姫に幸ひし給へり。さてしもはつべき事ならねば、都へ上り給ひけるに、「草薙剣をば紀念とせよ」とて、岩戸姫に渡し給ひしを、「我、女の身なれば、剣持ちて何かはせん。只持ちて上り給へ」と申されければ、「存ずる旨あり」とて、桑の枝に懸けて、尊は上り給ひにけり。
 さる程に、八岐の大蛇、伊吹大明神は、尊に跳り越えられてえ留めぬ事を本意なく思ひて、前よりも尚大きに高く顕れて大路を塞ぎ給へり。尊は猶も事ともし給はず、走り越えて通り給ひけるに、引き給ひける足の先、大蛇にちとさはりたりければ、それより頓てほとぼり上りて、五体身心忍びがたく、打ち臥しぬべくおぼせども、心強におはしける程に、悩みながら近江国まで越え給ふ。道の辺に水の流れ出でて冷しく清潔なりければ、端なる石に腰をかけて、水に足をさし降して寒し給ひける程に、立処にほとぼり醒めにけり。それよりして、この水をば「醒井」とぞ名付けたる。ほとぼり醒めたれども、御悩重かりければ、虜の夷をば大神宮に奉り、武彦を以てこの由を奏し給ふ。
 尊は猶、近江国「千の松原」といふ所に悩み臥し給ひけるが、松子の島に宿り給ひし岩戸姫は、尊の余波を惜しみつつ、在りもあられぬ心地して尋ね上り給ひけるが、近江の千の松原におはしましけり。尊は悩みながら思ひ出だされて、恋しく思しける処に、岩戸姫来り給ひければ、余りの悦ばしさに、「あは、妻よ」とて、大きに悦び給ひけり。それよりして東国をば、「吾妻」とぞ名付けたる。
 かくて日数を送り給ふ程に、尊は御悩重くならせ給ひて、終に失せ給ひにけり。白鳥となりて南を指して飛び給ふ。岩戸姫は、尊の別れを悲しみて、悶え焦れ給へども、その甲斐なき事なれば、泣く泣く尾張国へ帰り給ひけり。
 尊に仕へる人々、別れを悲しみ奉りて、跡目に付きて行く程に、紀伊国名草郡に暫く落ち留まりけるが、この所を悪しくや思しけん、東国に飛び返り、尾張国松子の島にぞ飛び行きける。白鳥にて飛び給ひし時は、長さ一丈の白幡二流と見えしなり。尾張国に飛び落ちぬ。その所をば「白鳥塚」と名付けたり。幡の落ちける処をば「幡屋」とて今にあり。兵衛佐頼朝は、末代の源氏の大将となるべき故にや、彼の幡屋にてぞ生れ給ふ。
 草薙剣をば桑の枝に懸け置き給ひしを、岩戸姫これをとり、紀大夫が田、一夜の内に森になりたる社の杉に寄せ掛けて置かれたりけるが、夜な夜な剣より光立ちければ、彼の光杉に燃え付きて焼け倒れにけり。田に杉の焼けて倒れ入りたりければ田も熱かりけるといふ心に「熱田」とぞ名付けたる。
 日本武尊は、白鳥にて飛び落ち給ひて神になる。今の「熱田大明神」これなり。岩戸姫もあかで別れし中なれば、即ち神と顕れ、源大夫も神となり、紀大夫も同じく神とぞ顕れける。さても草薙剣をば宝殿を作りて置かれたりけるが、夜な夜なに剣に光立つ。知法行徳の人ならでは見る事なし。然も新羅の沙門・道行といひける高僧の、日本にたつ剣の光を見て、帝にかたりければ、「何ともして彼の剣を取りて我に与へよ」と仰せありければ、「さては取りて進らせ侯はん」とて、日本にぞ渡りにける。尾張の熱田に詣でつつ、彼の剣を七日行なひて盗み取りて、五条の袈裟に包みて逃げける程に、剣袈裟を突き破りて本の宝殿に返り入る。二七日行なひて剣を取り、七条の袈裟に包みて逃げけるに、剣又七条をも突き破りて宝殿に返る。道行尚立返りて、三七日行なひて今般は、九条に包みて出でける間、袈裟をも破る事を得ずして、筑紫の博多まで逃げ帰りたりけるを、熱田明神、安からぬ事と思召し、住吉大明神を討手に下し、道行を蹴殺して草薙剣を奪ひ取る。
 帝、「生不動」といふ将軍に、七つの剣を持たせて日本へぞ渡しける。生不動、既に尾張国まで攻め来る。熱田の神宮、「悪き奴かな」とて、蹴殺し給ひにけり。所持の七つの剣を召し取りて、草薙剣に加へて宝殿に祝はれたり。今の「八剣の大明神」とはこれなり。
 代々かくこそありしに、後の宝剣も霊験を取り給はず。平家取りて都外に出でて、二位殿、腰にさして海に入る。上古ならましかば、失ふべきに非ず。末代こそ心憂けれ。潜きする海人に仰せてこれを求めさせ、水練を召して尋ぬれども見えず。龍神これを取りて龍宮へ納めてければ、終に来たらざりけり。その頃、或る人の夢に見えけるは、「草薙剣は風水龍王、八岐大蛇と変じて、素盞鳴尊に害せられ、持つ所の剣を奪はる。この風水龍王は、伊吹大明神たるに依りて、不破の関に蛇となりて、日本武尊の伊勢大神宮より天叢雲剣を賜はりて東夷の為に下国しけるを留め取らんとし給ひけるもかなはず、御上りの時待ちまうけて、奪ひ返さんとし給ひけるも殺されけり。生不動、八歳の帝と現れて、本の剣は叶はねども、後の宝剣を取り持ちて西海の波の底にぞ沈み給ひける。終に龍宮に納まりぬれば、見るべからず」とぞ見えたりける。(『平家物語』)


【Reco注】 乱暴者の素戔嗚尊は、姉・天照大神に高天原を追い出され、出雲国斐川に着くと、上流から箸が流れてきたので、上流に人が住んでいると思って川を遡ると、足名椎と手名椎という老夫婦が住んでいて、風水竜王(八岐大蛇)へ娘・稲田姫を差し出さねばならないと言って悲しんでいた。素戔嗚尊は、八塩折(やしおり)の酒を醸造し、風水竜王が酒を飲んで弱まったところを十束剣(後の天羽々斬之剣)で斬ると、叢雲剣(後の草薙剣)が出てきたので、天照大神に渡すと大喜びして、仲直りした。(この叢雲剣は、高天原から天照大神が落としてしまった剣で、伊吹山に落ちた。伊吹山は金属精錬を行う伊福部氏の領地で、風水竜王を伊吹大明神として祀っていた。)

<宝剣>
・天叢雲剣:天照大神→八岐大蛇→天照大神→崇神天皇、鋳直し熱田神宮
・十柄剣(天羽々斬剣):素盞鳴尊→石上神宮(旧・石上布都大神社)

<御神鏡>
・引出物の鏡:皇居の内侍所→崇神天皇、鋳直し古鏡は天照大神へ
・天岩戸を開けさせた鏡:小さいので日前宮(和歌山県和歌山市)へ
・大きく鋳直して「八咫鏡」。二見ヶ浦の夫婦岩→伊勢神宮
(伊勢神宮を参拝する場会、先ずは二見ヶ浦へ行くのがルール)

 後に天照大神は、八咫鏡と叢雲剣を依り代として、天照大神が高天原から落とした五十鈴が見つかった伊勢に神宮を建てて住むことになったが、日本武尊が東征の途中に立ち寄ると、叢雲剣を与えられ、駿河国造に火で攻められた時、この剣で草を薙ぎ、向い火を点けて難を逃れたので「草薙剣」と呼ばれるようになった。東征後、日本武尊は草薙剣を妻となった松姤島の尾張氏の岩戸姫(後の宮簀媛)に形見として渡し、都へ帰る途中、大蛇に化した風水竜王が、伊吹山で道を塞いだが、日本武尊は飛び越えた。しかし、足の先が大蛇に触れたことが原因で、「千の松原」で絶命し、白鳥と化して熱田の白鳥塚に舞い降りた。とはいえ、草薙剣は、尾張氏が確保していて、取り返せなかった。
 草薙剣は、岩戸姫が宮簀媛(「宮ッ姫=神宮の祭主」の意)と名乗って祭主となり、火上山の山頂の尾張氏居館に氷上姉子神社(元宮)に祀ったが、持統天皇が持統天皇4年に山麓に遷座させが、草薙剣は、占いにより、熱田神宮に遷された。
 持統天皇の父・天智天皇の御世、新羅国の僧・道行が、新羅国王の命で草薙剣を盗み出したが、住吉大神(筑前國一之宮・住吉神社)が博多で確保し、草薙剣は皇居に返された。新羅国王は「生きた不動明王」と呼ばれた猛将・熱動将軍に7振りの剣を与えて熱田神宮を攻めさせたが、熱田大神に倒され、剣も奪われた(「熱田神宮別宮」の「八剣宮」)。百済国支持で反新羅の天智天皇を継いだ親新羅の天武天皇は、新羅国とは相性の悪い草薙剣に祟られて発病したので、草薙剣は熱田神宮に戻された(「酔笑人神事」)。
 源平合戦の「壇ノ浦の戦い」で、草薙剣は海底に沈み、風水竜王が拾ったという。(一説に、風水竜王は地下通路を使って草薙剣を伊勢神宮に運び込み、現在、草薙剣は、伊勢神宮の地下宮殿に眠っているという。)

<草薙剣の位置>

 「こころの小径」を歩いて行くと、清水社のあたりから古代に草薙剣が置かれていた校倉造の土用殿を見ることができる。
 現在、草薙剣が安置されている本殿の裏には、防空壕があり、戦争中には社宝が置かれていたが、草薙剣は、ここではなく、映画『君の名は』で有名になった飛騨一宮・水無神社(岐阜県高山市一之宮町)に疎開していた。

※以前、「瀬織津姫を祀る100社以上の神社を全て参拝した人物が2人いる」と聞いたことがあるが、怪しい。瀬織津姫を祀る一之御前社は、「こころの小径」が開放されるまでは参拝出来なかったはずである。(ただし、現在、熱田大神は「神宮」号を得るために天照大神に変えられ、一之御前社の御祭神は「天照大神荒魂」に変えられているので、参拝しなくてもOK?)

※熱田神宮:旧・熱田社、熱田の宮。「神宮」号を得るために、「御祭神の熱田大神は、草薙剣に依る天照大神である」と定義した。「本来の熱田大神は日本武尊である」と信じている方が多いが、それは草薙剣が祀られたからであり、一之御前社に天照大神の荒魂に変えられた天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊の正室・瀬織津姫が祀られていることを考えると、本来の熱田大神は、尾張国一宮・真清田神社の御祭神である天火明命(八岐大蛇に乗って尾張国へ来たという天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊の略称)である可能性が高い。
 ただ、氷上姉子神社から「三種の神器」草薙剣が遷されて、熱田大神=草薙剣になったので、熱田大神を草薙剣を見つけた素盞嗚尊であるとか、草薙剣を使った日本武尊であると考えられていたが、現在は草薙剣の元の持ち主である天照大神だとされている。


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