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徳川家康は金ヶ崎で「越前がに」を食べたか?

 『どうする家康』で、金ヶ崎で「越前がに」(ズワイガニ)を食べるシーンがありました。(「蟹ヶ崎」って『99.9』かよ。)
ズワイガニは、産地によって、
・越前がに :福井県の漁港で水揚げされる雄のズワイガニ
・せいこがに:福井県の漁港で水揚げされる雌のズワイガニ
・加能ガニ :石川県の漁港で水揚げされるズワイガニ
・松葉ガニ :山陰地方の漁港で水揚げされるズワイガニ
と名が異なり、漁場の海が栄養豊富な「越前がに」が最高級食材だそうです。(「せいこがに」(子持ち蟹)の「せいこ」は「背負子(しょいこ)」の意でしょうか?)

 蟹は「魚網に絡み、切ってしまうたちの悪い生物」として、網にかかると捨てられたと聞いていますが、「越前がに」は最も古くから食べられていた蟹だそうで、『古事記』「応神天皇記」に「敦賀の蟹」、京都の公家・三条西実隆の日記『実隆公記』「永正8年(1511年)3月条」に「越前蟹一折」と出てきますから、元亀元年(1570年)に徳川家康が食べていても不思議ではありませんが、漁期は11月6日から翌年3月20日までの「冬の味覚」です。「金ヶ崎の退き口」は4月30日ですが><

20日 伯少將送越前蟹一折
21日 越前蟹一折遣龍崎許了

三条西実隆『実隆公記』「永正8年(1511年)3月」
https://dl.ndl.go.jp/pid/1918650/1/252

※「1杯(いっぱい)」「1折(ひとおり)」:蟹を数える数助詞は、生物としては「匹(ひき)」、食材としては「杯(はい)」です。「折(おり)」は、「進物や献上品などの数え方」「台に載せた物の数え方」です。

NHK

『どうする家康』でも、台の上に積まれて出されていました。

内海元紀『敦賀十勝』「角鹿(敦賀)の塩と蟹」(1874)

『日本書紀』(巻第16)「仁賢天皇11年11月」(仁賢天皇は11年8月に崩御されているので「武烈天皇紀」になる)に「敦賀の塩(のみを天皇が使用する理由)」、『古事記』「応神天皇記」の応神天皇の歌に「敦賀の蟹」が登場する。

 冬十一月戊寅朔戊子。大伴金村連、謂太子曰「真鳥賊可撃。請討之」。太子曰「天下将乱。非希世之雄、不能済也。能安之者、其在連乎」。即与定謀。於是、大伴大連率兵自将、囲大臣宅、縦火燔之。所揮雲靡。真鳥大臣、恨事不済、知身難兔。計窮望絶。広指臨詛、遂被殺戮。及其子弟。詛時、唯忘角鹿海塩不以為詛。由是角鹿之塩為天皇所食、余海之臨為天皇所忌。

『日本書紀』(巻第16)「仁賢天皇11年11月」

 冬11月11日、大伴金村連が太子(後の武烈天皇)に申し上げた。
「真鳥をお討ちなさい。仰せがあれば討伐いたします」
太子は、
「天下争乱の恐れがある。世に優れた人物でなければ治めることができない。よくこれを安らかにできるのはお前であろう」
と言われた。そして、一緒に相談をした。
ここにおいて、大伴大連が兵を率いて自ら将となり、大臣の家を囲み、火をかけて焼き払った。人々は指揮に雲のようになびき従った。
真鳥大臣は、自分の計画の失敗を知り、逃れ難いことを悟った。計画は挫折し、望みは絶えた。広い海の潮を指さして呪いをかけ、遂に殺された。
咎はその一族に及んだ。
呪う時に、ただ敦賀の海の塩(潮)だけを忘れて、呪いをかけなかった。このために敦賀の海から取れる塩は、天皇の御食用に使われたが、他の海の塩は天皇の忌まれるところとなった。

※現代語訳は、↓サイトを参照しました。

応神天皇が宴席料理を前に詠んだという歌。

許能迦邇夜伊豆久能迦邇 毛毛豆多布都奴賀能迦邇
この蟹や何処(いづく)の蟹 百伝(ももづた)ふ角鹿(つぬが)の蟹
この蟹はどこの蟹? 遥かに遠い敦賀の蟹。

故、到坐木幡村之時、麗美孃子、遇其道衢。爾天皇問其孃子曰「汝者誰子」。答白「丸邇之比布禮能意富美之女、名宮主矢河枝比賣」。天皇卽詔其孃子「吾明日還幸之時、入坐汝家」。故、矢河枝比賣、委曲語其父、於是父答曰「是者天皇坐那理。此二字以音。恐之、我子仕奉」。云而、嚴餝其家候待者、明日入坐。故獻大御饗之時、其女矢河枝比賣命、令取大御酒盞而獻。於是天皇、任令取其大御酒盞而、御歌曰、
  許能迦邇夜 伊豆久能迦邇 
  毛毛豆多布 都奴賀能迦邇
 
  余許佐良布 伊豆久邇伊多流 
  伊知遲志麻 美志麻邇斗岐 
  美本杼理能 迦豆伎伊岐豆岐 
  志那陀由布 佐佐那美遲袁 
  須久須久登 和賀伊麻勢婆夜 
  許波多能美知邇 阿波志斯袁登賣 
  宇斯呂傳波 袁陀弖呂迦母 
  波那美波 志比斯那須 
  伊知比韋能 和邇佐能邇袁 
  波都邇波 波陀阿可良氣美 
  志波邇波 邇具漏岐由惠 
  美都具理能 曾能那迦都爾袁 
  加夫都久 麻肥邇波阿弖受 
  麻用賀岐 許邇加岐多禮 
  阿波志斯袁美那 迦母賀登 
  和賀美斯古良 迦久母賀登 
  阿賀美斯古邇 宇多多氣陀邇 
  牟迦比袁流迦母 伊蘇比袁流迦母
如此御合、生御子、宇遲能和紀自宇下五字以音郎子也。

『古事記』「応神天皇記」

蟹の歌
――蟹と鹿とは、古代の主要な食料であつた。その蟹を材料とした歌曲の物語である。ここではワニ氏の女が關係するが、ワニ氏は後に春日氏ともいい、しばしば皇室に女を奉り、歌物語を多く傳えた家である。――
 かくて木幡(こばた)の村においでになつた時に、その道で美しい孃子
(おとめ)にお遇いになりました。そこで天皇がその孃子に、「あなたは誰の子か」とお尋ねになりましたから、お答え申し上げるには、「ワニノヒフレのオホミの女のミヤヌシヤガハエ姫でございます」と申しました。天皇がその孃子に「わたしが明日還る時にあなたの家にはいりましよう」と仰せられました。そこでヤガハエ姫がその父に詳しくお話しました。依つて父の言いますには、「これは天皇陛下でおいでになります。恐れ多いことですから、わが子よ、お仕え申し上げなさい」と言つて、その家をりつぱに飾り立て、待つておりましたところ、あくる日においでになりました。そこで御馳走を奉る時に、そのヤガハエ姫にお酒盞(さかずき)を取らせて獻りました。そこで天皇がその酒盞をお取りになりながらお詠み遊ばされた歌、
  この蟹かにはどこの蟹だ。
  遠くの方の敦賀の蟹です。
  横歩よこあるきをして何處へ行くのだ。
  イチヂ島・ミ島について、
  カイツブリのように水に潛くぐつて息いきをついて、
  高低のあるササナミへの道を
  まつすぐにわたしが行ゆきますと、
  木幡の道で出逢つた孃子、
  後姿は楯のようだ。
  齒竝びは椎の子(しいのみ)や菱(ひし)の實のようだ。
  櫟井(いちい)の丸邇坂(わにさか)の土を
  上の土はお色が赤い、
  底の土は眞黒(まつくろ)ゆえ
  眞中(まんなか)のその中の土を
  かぶりつく直火(じかび)には當てずに
  畫眉(かきまゆ)を濃く畫いて
  お逢いになつた御婦人、
  このようにもとわたしの見たお孃さん、
  あのようにもとわたしの見たお孃さんに、
  思いのほかにも向かつていることです。
  添つていることです。
 かくて御結婚なすつてお生みになつた子がウヂの若郎子(わきいらつこ)でございました。

武田祐吉訳『古事記』

 「越前がに」は、全国で唯一の皇室献上蟹だそうで、最高級品は「極」判定された「幻の越前がに」(「紀行潤礼」の最後に写された黄色のタグが付けられた蟹)で、1匹250万円の値がついたこともあります。通常は数十万円ですけど、東尋坊の「やまに水産」なら、皇室献上蟹を1杯10万円で食べられる時もあるとか。(少し傷があるとか、左右の脚の長さが少し異なる「極落ち」は格安だそうです。)

 死ぬまでに1度でいいから、蟹1杯、丸ごと1人で食べてみたいです。1杯の蟹を家族で分け合って食べる姿は、第三者から見たら微笑ましいのでしょうけど、本人は欲求不満です。(と、ある人に話したら、「子供に高級品を食べさせたら、贅沢させたら、その子の後々の人生が大変」って子育ての極意(?)を伝授されました。)蟹蒲で我慢するか(トホホ)。

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