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「一ノ谷の戦い」の真実(2)

後白河法皇「九郎、一ノ谷の合戦では、見事な働きであったの」
源義経  「ありがとうございます」
丹後局  「鵯越の逆落し━━崖を馬で駆け下りたそうな」
梶原景時 「それぐらいやらなければ、奇襲とは申せません」
後白河法皇「ハハハハハハ」
(報告後の廊下にて)
梶原景時 「法皇は誤解しておられます。九郎殿が下りたのは鵯越ではござらぬ。一ノ谷と鵯越は全く別のもの」
源義経  「かまわぬ。鵯越の方が響きがいい。馬に乗って駆け下りた方が絵になるしなぁ。(振り返って)平三、歴史はそうやって作られていくんだ」

私は、既に、先行記事「「一ノ谷の戦い」の真実」において、
・「鵯越」と「一ノ谷」は別物(「鵯越」は「一ノ谷」の東方8kmにある)
・「鵯越」を通ったのは多田行綱
と指摘した上で、疑問点は、
・なぜ「生田、夢野、一ノ谷の戦い」ではないのか?
・なぜ源義経の武功になっているのか?
と指摘させていただいた。

※「一ノ谷の戦い」の真実
https://note.com/sz2020/n/ne86321fd3c04

 今回の放送(『鎌倉殿の13人』(第17回)「助命と宿命」)で分かったことは、鎌倉での報告は、「源頼朝に、大将・源範頼が報告し、北条義時が補足する」という形式であった(内容は木曽義仲の人物像が中心?)が、京都での報告は、「後白河法皇が源義経に噂の確認をしただけで、同伴した軍奉行・梶原景時は何も報告しなかった」ことである。
 「後白河法皇が確認に呼んだのが、一ノ谷で戦った源義経であり、その源義経は、尾ひれが付いた噂を肯定した」━━これが上の疑問点の答えであろう。(この時代の史料は、公家が聞いた話を書いた日記である。)また、梶原景時の手紙に、源義経は戦功を独り占めしようとしているとある。それで「生田、夢野、一ノ谷の戦い」を「一ノ谷の戦い」と呼んだのかもしれない。

 ━━平三、歴史はそうやって作られていくんだ。

は名言である。尾ひれが付いた噂を、源義経が肯定したので、それが「歴史」となってしまったということである。「平三、歴史はそうやって作られていくんだ」は、「名言! 上手い!」とは思うが、ただ、残念!「歴史」はhistoryの訳語として、江戸時代末期に考えられた単語で、初見は堀達之助『英和對譯辞書』(1862年)である。源義経は、「歴史」という単語を知らないのである。
 そう言い出すと、「ありがとうございます」は「有り難き幸せ」「身に余る幸せ」じゃないかとも思えてくる。『枕草子』の「ありがたきもの」の「ありがたき」は、「この世に有るのが難しい」という意味で、中世の仏教の教えの「輪廻転生において人間に生まれ変わるのは有り難いことで、感謝しなければいけない」と結びついて、「ありがとう」が感謝を伝える言葉として広がった。なお、ポルトガル語の「オブリガード(obrigado)」が「ありがとう」の語源だとする説は俗説である。


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