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「一ノ谷の戦い」の真実

『鎌倉殿の13人』の
第15回は、上総広常の暗殺
第16回は、源義経のデビュー
であった。

「上総広常の暗殺」については、きちんと描かれており、ドラマとしては秀作であったが、史実ではない。

※「Reco's Eye:上総広常暗殺の理由」
https://note.com/sz2020/n/nbba0d3d665f3

「源義経のデビュー」については、大雑把に描かれ、歴史に詳しい人は「解説してあげたい」、歴史に詳しくない人は「解説して欲しい」という状況になる内容であった。

 さて、「一ノ谷の戦い」は、源義経の奇襲作戦「鵯越の逆落し」によって、源氏軍が勝ったとされているが、現在の地図上の「鵯越」(神戸市兵庫区鵯越筋)は、「一ノ谷」(神戸市須磨区一の谷町)の東方8kmにある。

 ━━当時も今と同じだとすると、離れすぎている!

そこで考えられたのが、
説① 「鵯越の逆落し」は「鵯越」で行われた。(「一ノ谷」ではない。)
説② 「鵯越の逆落し」は「一ノ谷」で行われた。(「鵯越」ではない。)
    説②-A:鉢伏山を下った。
    説②-B:鉄拐山を下った。
説③ 「鵯越」を通って「一ノ谷」で行って「逆落し」を行った。
説④ 「鵯越の逆落し」はなかった。(源義経は、「一ノ谷」の裏山の鉢伏山と鉄拐山との間の「二ノ谷」を通った。)
である。(説③の「鵯越」と「一ノ谷」を結ぶ道は、まだ発見されていない。)

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 ドラマ『鎌倉殿の13人』では、「鉢伏山」の「蟻の戸」から先に馬を落とし、次に人が下りたとした。
 また、平家の本陣は「一ノ谷」に置かれ、そこに安徳天皇と平宗盛がいたとした。

1.「一ノ谷の戦い」の真実

             北:鵯越
         ↓源義経    ↓多田行綱 
   西端:一ノ谷口
──本陣:福原──東端:生田口←源範頼
               │
           :瀬戸内海

    ・東端(生田口)    :源範頼     vs 平知盛&平重衡
    ・中央(福原)        :多田行綱 vs 平忠盛&平教経
    ・西端(一ノ谷口)    :源義経     vs 平忠度
    ・南=瀬戸内海   :負けた平家は船で逃走

<源氏の侵攻経路>

・大手軍:源範頼は、最短距離(山陽道)を往き、東端の生田に着陣
・搦手軍:源義経は、迂回路(丹波路)を往き、西端の一ノ谷を攻撃
・多田行綱(地元の武将であり、土地勘がある)軍が本陣を攻撃
 ※多田行綱の名は『吾妻鏡』になく、源範頼軍か源義経軍か不明
  説①:源範頼軍で、昆陽野で分かれる。→鵯越→本陣・福原攻撃
  説②:源義経軍で、三木で分かれる。 →鵯越→本陣・福原攻撃

<源氏の勝因>

 源氏の勝因については、源氏側は、源義経の奇襲「鵯越の逆落し」だと主張し、平家側は、後白河法皇の和平勧告を信用し、交戦はないとして警戒を緩めたことだと主張している。こういうことは、敗者の主張が正しいことが多いので、実際のキーパーソンは後白河法皇であろう。(ドラマ『鎌倉殿の13人』では、源義経が後白河法皇に偽りの和平勧告を頼んだとする。)

「一ノ谷の戦い」とは、
・東:大手軍(源範頼)の生田の森の戦い
・西:搦手軍(源義経)の一ノ谷城攻撃
・北:多田行綱が鵯越を通っての本陣・福原攻撃
という三方同時攻撃の総称である。

───なぜ「生田、福原、一ノ谷の戦い」ではないのか?
───なぜ源義経の武功になっているのか?

※「ほんとうの一の谷合戦」
https://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/rekihaku-meet/seminar/etoki/truth.html
※「一ノ谷合戦を考えるための文献資料」
https://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/document/genpei/gassen/gassen0.html

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