見出し画像

『青天を衝け』紀行「宝台院」

画像1

画像2

■宝台院と徳川慶喜公(現地碑文)
 
 明治元年7月、第15代将軍徳川慶喜は、謹慎の身となり、同月19日水戸を出発して銚子港に到着し、同月21日蟠龍艦に乗船し、同月23日に清水港に到着した。海路にて移動したのは、上野彰義隊の戦いの興奮も冷めない江戸を通ることが、極めて危険な事であったからであろう。この時目付の中台信太郎(のち駿府藩町奉行)がこれを出迎え、また精鋭隊頭松岡万以下50名の厳重な護衛がついて駿府に向かった。慶喜が討幕派、旧幕臣の双方から命を狙われる重要人物であった事情に加えて、無政府状態とも言うべき当時の駿府の町の状況がこのような物々しい警備体制を必要としていた。 一行は当日夕刻には宝台院に入ったが慶喜の駿府移住は秘密裏に行われ町民には一切知らされていなかった。慶喜の駿府入りが町触れで知らされたのは、その5日後の28日のことだった。
 尚、宝台院を慶喜謹慎の場所に選んだのは元若年寄の大久保一翁だった。彼は駿府町奉行の経験もあってこの町を熟知しており、徳川第2代将軍秀忠の生母西郷局が葬られた宝台院こそ慶喜が落ち着いて過ごせる場所と考えたのであろう。以来、誠心誠意謹慎をされ翌明治2年9月28日、謹慎が解け10月5日紺屋町の元代官屋敷(現在の浮月楼)に移転されるまで、約1年余りを当山で起居した。この謹慎の部屋は10畳と6畳の2室で、10畳の間を居間、6畳の間を次の間として使用し、当時渋沢栄一や勝海舟と面会したのもこの6畳だった。
 明治元年8月15日、藩主亀之助(後の徳川家達)が駿府に到着した時も、先ず宝台院に参上し御霊屋に参礼の後、やはりこの部屋で対面したとのことである。家達は七間町3丁目を曲がり、御輿で大手門より入城したが、当時まだ7歳であった。
 現在の宝台院には、慶喜の遺品として、キセル、カミソリ箱、急須、火鉢、本人直筆の掛軸、居間安置の観音像が残っている。

★「宝台院」公式サイト
https://www.houdaiin.jp/
★参考資料一覧「「徳川慶喜公謹慎之地」石柱(宝台院)」
https://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/contents/history/sisekiannai/siseki_1.html

記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。