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金曜22時、一杯飲みながら私は自担と〈対話〉する。

ジャニーズJr.の7人組グループ・Travis Japan。彼らがスキルアップを目的にアメリカはロサンゼルスへと旅立ったのは、2022年3月末のことである。あれから3ヶ月が経った現在、彼らの生活のペースはすっかり整い、トラジャ担はそれぞれの心の置き所を定めた、と何となくそんな風に感じ取っている。

Travis Japan(以下トラジャ)は、ダンスを武器に世界で活躍することを目標にしているグループだ。渡米直後に参加したWolrd Of Danceという、世界的なダンスコンテストの予選において第3位、同時にBest costume賞、Crowd Favorite賞という計3つの賞を獲得したことは記憶に新しい。

渡米早々ぶちかましてくれた、これだからトラジャはすごい! 前途洋々だなぁ!と、改めて「トラジャは世界で活躍するんだ」という明るい未来を思い描いた後にやってきたのは、あまりにも「普通」の日常だった。

同じような「普通」を見出す日々へ

いや「普通」というのは少し語弊があるかもしれない。日本にいたときにもあった厳しいレッスン、それに並行してテレビの収録、Youtubeや雑誌、ドラマや映画の撮影などをこなす。それらを積み重ねてライブや舞台を演出し、彼らも私たちも思い切り楽しむことができる。
何というか、そんな日々こそが私たちが想像しうる「アイドルにとっての普通」であった。

けれど、そうではなく彼らが渡米してから発信してくれる毎日は、どうかしたら私たち一般人と重ね合わせてしまいそうなほど「普通の日常」だったのだ。ブログやInstagram、YouTubeから垣間見える日々は、友だちとルームシェアしながらアメリカに留学している学生インフルエンサーのような、そんな印象さえある。毎日芸能人や業界の人間に囲まれていた頃とは違い、「一般人」としての感覚を思い出す瞬間もあるのかもしれない。そして同時に、彼らが「アイドル」でありながら「一人の人間」であることを思い出す。

(といっても忙しい毎日を認識した瞬間やレッスンの様子を見た瞬間、コンペやフェスの配信を見た瞬間、そんな印象はどこかへ吹っ飛び「やっぱり彼らは全然違う世界にいる……調子乗ってゴメンナサイ……」と実感することもまた然りである。)

彼らの立場は今、何なのだろう。「留学生」だとか「ジャニーズJr.」だとか、そういう形容的な立場ではなく、以前ののえまる定期更新にあったように彼らの心持ちは今どの部分にあるのだろうか、ということだ。日々忙殺されながらも何を考え、どんなことに傷つき、何をモチベーションに頑張っているのか、どんな未来を想像しているのか……そんなことを考えるのは、アイドルである彼らも一般人である私たちも、「一人の人間」として何ら変わりはないのではないだろうか。

「ねぇ、ちょっとだけ話、聞かせてほしいな」
「ねぇ、わたしの話、聞いてもらってもいい?」

そんなことを毎日つらつらと思いながら、私はトラジャが発ってからの3か月間、YoutubeやDVD、音楽番組などの録画よりも、ブログや雑誌のテキストを今まで以上にしっかりと読み込むようになっていることに気がついた。

この前提として私の中で、応援を形づくるベースとなる「トラジャへの向き合い方」には2種類ある。ひとつはエンターテインメントとしての楽しさを享受すること、もうひとつは彼ら自身と「対話」することである。
あのパフォーマンスとエンタメのセンスに惹かれているのはもちろん、Travis Japanというグループに〈組織〉として憧れたり、自担である川島如恵留くんの人間性が好きであったりもする。けれど「トラジャ担」として自分がトータルで見たとき、このふたつのバランスは圧倒的に前者の方が多い形で保たれていた。

定期的なメディア露出に加えてテレビやドラマ・映画への出演も増えてきており、ライブや舞台もあった。特にこの2020年から出発前までの間は、ありがたいことに様々な機会をもって「エンターテイナーとしての彼ら」を存分に味わうことができていたからだ。

そして渡米後それらが大幅に減った現在は、後者である「彼らと対話をすること」が自分の中でのほとんどを占めているのである。
その理由は明白で、トラジャがアメリカへと向かった今春、私も勤めていた会社をひっそりと辞め、新たな挑戦をすることになったから。私(=一般人)と似た「普通」を過ごしているかもしれない今の彼らに、ちょっとだけ相談したい気持ちが大きくなっていたからである。

「自己実現」と「同一視」のファン心理

会社を辞め、新規事業の立ち上げに携わる――1年ほど前、あるご縁によりこの大きな決意をして会社に申し出たのは昨年秋のこと。図らずも自担と同じタイミングで、しかも一人ではなく仲間と一緒に人生の新たな一歩を踏み出すことになった、ごく普通のトラジャ担。それが今の私だ。

私が〈川島如恵留〉という人間が好きな理由のひとつに「自己実現のための同一視」がある。
こういうファン心理については「なるほどなるほど」とヘドバンしながら読んだほど興味深い論文がある。(それを引用しながら書いたら伝わりやすいのだけれど、そんなことしたらもうnoteじゃなくなりそうなので割愛する。)

「如恵留くんみたいになりたい」――これは私の口癖だ。「カッコいい」とか「好き」という言葉より先に出てくるのは、いつもこの一言である。如恵留くんを見ていくうちに自分のなりたい人物像と〈川島如恵留〉が一致していった、だから好きになった、という、最初はそこが理由だったと思う。

「如恵留くんみたいになりたい」は今でも思っていることだし、発言を受けて「こういうところが好きなんだよなぁ」と思うことはその都度、何度だってある。
相手は生きている人間なのだから理想化された人物像を押しつけすぎるのは、もちろんよくない。私はそれをかつての自分の失敗から学んだ。

けれど今自分が新しい挑戦をする中で、ドキドキするとかワクワクするといった前向きな感情で動けることもあれば、不安や心配に押しつぶされそうなときだってある。そんなとき、心の支えである好きな相手に対して「如恵留くんだったらどう考える?」「こういうときどうしたらいい?」と、〈理想の人〉からの答えが欲しい、みたいな気持ちを持ってしまうのは、仕方のないことだとも思う。

だから今、私は如恵留くんやトラジャとの「対話」を必要としてるのだと気づいたのだ。恐らく、多くのトラジャ担がそうであるように。
4月から突如はじまったとらまる定期更新の質問コーナーによって、その「対話」は現実的に可能になった。たとえ自分の質問が読まれなかったとしても、である。

「対話」は、お互いに向かい合うこと

先ほどから「対話」という言葉を使っているが、これは本を読むことが「作者との対話である」と言われることに由来する。
彼らはアーティストであるから、パフォーマンスで表現されたメッセージを受け取ることが出来れば素敵だけれど、私はなまじアーティスティックな感性が鈍く、それこそ「カッコいいな〜」「すごいな〜」という語彙力ゼロの感想しか持つことができない。
三度の飯より読書が好きな質なので、どちらかというと文章を読んだりインタビューやドキュメンタリーなどで発した言葉から受け取ることを得意とする。それによって彼らと「対話」していると感じているのだ。

例えば彼らの覚悟を受け止めること、例えば悩みや弱音を共有すること、例えば時に「それは違うんじゃない?」と所見を述べること。そしてそこに、全然別の方向から今の自分が悩んでいることへの答えが見つけられることだって少なくない。それが「読書における作者との対話」みたいなもので、トラジャとトラジャ担の双方が向かい合っていなければできない、コミュニケーションの一種である。

怒涛のような供給は嬉しいけれど、「しっかり向かい合って考える」時間を与えてくれはしない。言葉を悪くすると「消費」している感覚になってしまう。(個人の見解です)
もちろん「あー今日も大好き愛してるまじで最高生まれてきてくれてありがとう結婚して」だけでも楽しいし、オタク活動はそれでいいとは思うけれど、彼らの気持ちと自分の気持ちの重なる部分を見つけ、そこについて深く考えてみる時間もとても楽しいものであるのだ。

世界を目指しているTravis Japan。ふと気づいたときには、きっと手の届かないところにいってしまっているだろう。そしてその未来は、決して遠くはないはず。
けれど今だけは、刹那のこの距離感を楽しんでいたい。「今日はこんなことがあったの、こんなことが苦しかったの」という悩みを相談できるような、「そっか、しんどかったね、でも〇〇くんも頑張ってるんだね」という悩みを受け止められるような、そんな風に向かい合うことができる距離感を。

そしてなにより、たとえ高いところへいったとしても、こちらの心持ち次第で「対話」することはずっとできる、とも思う。トラジャはそれほど真摯に丁寧にファンと向き合ってくれているのだから。

如恵留くんは、自分が推しの話をするとき「みんなもこんな感じなのかなーって思って」とこちら側の気持ちを汲んでくれたことがあるけれど、同じようにちょっと悩んだり立ち止まって考えたりしたとき「自担もこんな感じなのかなー」と思うことが増えた。いや烏滸がましいことこの上ないのは重々承知しているので、石は投げないでいただけると助かります。すみません。

ところで、6月18日の正午。久しぶりに受けた「+81 DANCE STUDIO」の通知には、「あぁついに来たか……初回はどこのグループだろう……」と戸惑った気持ちを吹き飛ばす " V6-HONEY BEAT / performed by Travis Japan " の文字があった。
このごろ、走りっぱなしが少し落ち着きつつある私は、ふっと息をついたとき「のえるくん助けてモード」に入ってしまった。仕事の関係も多少あるけれど、特にプライベートで「ん~~~!  ちょっと~~!」みたいな出来事があって悶々としているせいだ。

「今この心境でハニビの歌詞はあかんて泣いちゃうてええええええ」とか何とか言いながらしっかりと、元気の出るパフォーマンスとともに「笑って 笑って 笑って」の言葉を受け取った。V6兄さん、ありがとうございます。私たち世代の青春、V6。

もう一度考えよう。今の自分は何をどうしたいか、何を求めているのか、これからの自分はどう生きていきたいのか。よし、とりあえず笑ってみるか、話はそれからだ、とあのめちゃくちゃ楽しそうな「笑って 笑って 笑って」で一緒に笑ってみたりした。声を出して笑ったのは、なんだか久しぶりな気がした。

ここにきて、〈エンターテインメントの享受〉と〈対話〉を同時に行うことができた嬉しさが込み上げてくる。やっぱりトラジャはすごいや。

「アイドル」を超えていくもの

やはり、これからの時代におけるアイドルとファンの関係性を考える中で、これまで多くが一方通行だった双方の気持ちや立場を、何となくでも理解し合うのは大切なことなのではないかと思う。

特に最近アイドルって何だろうか、と往々にして考えている。その理由がトラジャのデビューについて考えているから、ということは明白だ。

「世間に“ アイドル ”が認められるには、『またジャニーズか』と言われないためにはどうしたらいい?」「歌って踊れればそれがアイドル?」「いつもキラキラしてなくちゃいけない?」「ファンファーストの活動にしなくちゃいけない?」「自分に嘘をついても、求められるイメージを演じていなくちゃいけない?」「早くにデビューする方がよしとされるのは何で?」「若い方が〈アイドル〉らしいから?」「夢を売る仕事だから結婚しちゃいけない?」「じゃあアイドルって何歳までアイドルなの?」……

問いは止まらないのに答えは出ないし、正直考えてもよく分からない。でも、例え何があっても「もしかしたらこうかもなぁ」と相手の気持ちをほんの少しでも理解できるように「ちゃんと考えること」はやめたくない。この留学がそうだったように私は基本、自担が決めたことなら何でも「イイネ!」と言ってしまうタイプだからだ。

なぜトラジャはこのタイミングでアメリカへ行ったのか。
スキルアップとは何もダンスや歌、語学だけではない。いろんな文化や考え方、感覚に触れること、逆境や困難を乗り越えること、人間性に深みを持たせること、引き出しを増やすこと、大器晩成には大器晩成のカッコよさがあると見せつけること、忙殺されると狭くなりがちな視野をもっと広げること、頭で考えるだけでなく実際に経験してみること――
挙げればキリがない。とにかく、それはアイドルとしてのスキルを上げるためでもあり、一人の人間としてのスキルを上げるためでもある。

私は会社を辞めてから、久しぶりに散歩に出かける時間ができた。ゆっくり周りを見ながら歩くと、近所の公園のボロボロだった遊具が一新されていたことに気づいた。何人かに「あそこ変わってたよ!」と報告すると、口を揃えて「いつの話?」と呆れられた。もう3年以上は経つらしい。歩いて1分ほどの距離なのに、全く気づかなかったのだ。いや、気づこうともしなかったのかもしれない。そっち方面には用事がないから行かない、それほど私は毎日毎日、目の前のことしか見えていなかったということだ。

同じ町に住んでいても、環境が変われば視野も変わるのだとすれば(私が狭くなりすぎていた可能性は否めないが)、東京からロサンゼルスへ、日本からアメリカへ住む場所を変え、人間関係も変え、喋る言語を変え、メンバーと24時間一緒にいる生活へ、自分の環境すべてを変えた彼らの視野が大きく大きく広がっているであろうことは、その表情を見れば明らかである。

「トラジャ、楽しそうだなぁ」。アメリカへ発ってから何度もそう思った。「アイドル」の表情と「一人の人間」の表情が混ざった、不思議な顔つきをしているのだ。楽しいことばかりではなく、嫌なことも悔しいことも悲しいこともあるだろうけど、それも全部含めて「アイドル」としての表現の裏から、「人間」としての表現が滲み出てくるような深みのある表現者になってきている。そう確信できる表情だと、そんな気がしている。

そして帰国後の彼らを見たときに「アイドルって何だろう」の答えに近いものが出るかも、と少し楽しみにしている。それは、アイドルを超え唯一無二の〈Travis Japan〉というジャンルを手に入れた姿なのかもしれない。

アイドルとしてのTravis Japanを応援し、「一人の人間」が7人集まったTravis Japanとともに生きる。私は、トラジャとの出会いは偶然であり、運命だったのだと思う。

出発前に「物理的な距離は離れても、心の距離は縮まるかもしれないよ!」としきりに言われていたことが「あぁこういうことだったのかも」と思うほど、私はむしろ今の方が、日常にTravis Japanの存在を色濃く感じている。

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