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川崎長太郎「鳳仙花」

 私小説家である川崎長太郎の講談社文芸文庫から出ている作品、少し前に読んだ短編集「抹香町・路傍」に続いて、短編集「鳳仙花」を読んだ。

 彼は小田原の実家にあるトタン張の物置小屋(二畳。風呂・トイレはもちろんない)で寝起きし、朝は公衆便所や郵便局の手洗い場で顔を洗い、近くの食堂(「だるま」といい、現存・営業している)でちらし寿司を食べ、近くの「抹香町」と言われる私娼街(赤線、と言ったほうがわかりやすいだろうか)で女を冷やかし、時には遊び、そしてみかん箱を台にして蝋燭の火で私小説を書いた。「抹香町・路傍」でもほぼ同じ紹介をしたが、本作「鳳仙花」に収録されている短編「蝋燭」で、その詳細が書かれている。私小説であるから基本的にスペクタクルやエンターテイメントはない。かつて「やおい」(BL)の語源が「やまなし、おちなし、意味なし」の略であるとものの本には書いてあったけど、私小説も本来の意味でソレなのではないかと思う。

 川崎は、自分の弟が家業を継ぎ、結婚し、そうかと思えば自身の要介護の母と義妹との関係に悩む。「鳳仙花」に収められている「故郷の消息」「余熱」では家族のことが語られる。母は以前病気になってから寝たきりとなり、事あるごとに「死にたいから毒をくれ」「三原山に一緒に行きたい」(要は火口で死にたい、心中ということ)などとぼやく。元気がないのかといえばそうではなく、弟の妻やお手伝いさんに仰々しく振る舞った後で「あんな嫁は反対だった」「仕事ができない」などと不平不満を撒き散らし、そしてついでに川崎にも「早く文学なんかやめて就職して、私を安心させてくれ」とぼやくのだった。

 いくつかの短編では主人公の名前は違っているが、川崎長太郎作品は私小説であるため、主人公は自分と見て良いのだろう。表題作「鳳仙花」では、川崎は馴染みの雪子という娼婦と蕎麦を食べたり映画を見て遊んだりし、「乾いた河」では同じく馴染みの玉子という娼婦と遊ぶものの、彼女が病気になり、周辺をフラフラと徘徊している最中、若い娼婦に出会ってまた遊ぶというような日常が描かれる。「乾いた河」では戦後の売春防止法施行後、消えゆく赤線が描かれる。玉子はその後に娼婦をやめ、以前から付き合いのある女将さん(というか、昔の売春宿)の旅館で女中をするようになり、川崎は私娼街に行かなくなるのだった。

 川崎長太郎の小説は辛く寂しく、そして苦しい。澁澤龍彦は川崎長太郎のファンで、川崎を「超低空を飛ぶひと」と評したという。さもありなん。おそらく川崎長太郎は合う・合わないがあって、合わない人にとっては退屈で読んでも楽しくなく、あっさり終わってしまう彼の小説に不満を覚えるだろう。私も多分学生の頃は読んでいて不快だったと思うが、今読んでみると滋味というか、しみじみといいなと感じてしまうのは、私が歳をとったということなのだろう。誰にもすすめられないし、すすめたくはない。


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