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車谷長吉「妖談」「鹽壺の匙」「金輪際」

 川崎長太郎に続き、私小説を読んでみようシリーズ。藤澤清造「根津権現裏」も買ったが少し読みにくいので、車谷長吉から読み始めた。

 車谷長吉(くるまたに ちょうきつ)は兵庫県に生まれ、様々な仕事を転々としながら小説を書き続けた。この「妖談」は掌編小説が34載っているため、読みやすいだろうと思って読み始めたのである。

 「妖談」は様々な身の上の主人公が、嫌な目にあって無常を感じたりむかむかしたり達観したりする。そして唐突に話が終わってしまう。主人公が車谷自身かどうかは定かではない(文庫本の解説者・三浦雅士氏は、車谷長吉は私小説家ではないと述べている)が、私は車谷長吉自身だと思って読んだ(女性は別として)。

 面白い、というか、心がザワザワしてしまう。私自身が今まで歩いてきた人生で、嫌な感情というのは、強烈なもの以外はいつの間にか忘れてしまうものだ。「妖談」を読むとそれが、どこからともなく浮かび上がってくる。「俺を忘れたのか」という感じで。そして、心がザワザワしてしまうのである。例えば友人から借りたものを無くしたとか、親に駄々をこねたとか、学校の先生と言い争いをしたとか。強烈な「思い出したくない」というトラウマ的な記憶ではないけれど、「ああ、嫌だな、思い出さなきゃよかったな」と思うような記憶を、車谷長吉はピンポイントで書いてくる。

 この「妖談」の中で、車谷長吉は「作家になるということは、人の顰蹙を買うことだ」と書いている。彼のスタンスがよく分かる。

「人の顰蹙を買わないように、という配慮をして原稿を書くと、かならず没原稿になる。出版社の編輯者は、自分は人の顰蹙を買いたくはないが、書き手には人の顰蹙を買うような原稿を書くように要求して来る。そうじゃないと、本は売れないのである。本が売れなければ、会社は潰れ、自分は給料をもらえなくなるのである。読者は人の顰蹙を買うような文章を、自宅でこっそり読みたいのである。つまり、人間世界に救いはないのである。」

「妖談」

 その後「鹽壺の匙」「金輪際」も読んでみたが、受けた印象は同じで、薄暗くてザワザワする嫌な感じの小説である。なんだか、心のドブさらいというと失礼だけど、自分自身の中に分け入って、嫌なものを見つけていくような、そんな感じがした。


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