忘れる について

アルバイトをしていた小売店に、華奢なおばあさんが迷い込んできた。彼女は、近所に住んでいるはずだが道がわからなくなってしまった と言った。たしかに記憶している住所はその店の地名と一致していた。自分の名前もわからないとのことだった。

手には何も持っておらず、服にも名前などの記載がなかった。ポケットに入っていた診察券のような物に名前が書いてあるかと思ったが、名前を書くようなところだけちょうど抜けていた。手がかりが何もなかった。

店は混んではおらず、その時間はベテランの従業員と私の2人体制だった。あと15分で私は上がりの時間だった。10分以内には次のシフトの人がくるだろう。ベテランの人に聞いて、おばあさんを送る間はなんとか1人で回してもらうようにお願いした。

そうして私とおばあさんは3ブロックほど先の交番へと向かうことになった。

彼女の歩みはものすごく遅かった。私は合わせて歩いた。この遅さでどのくらい歩いたのだろうか。家族はいるのだろうか。何度も徘徊していたら家族は疲れているだろうな…。様々なことが頭を駆け巡った。
この本屋はわかる、ああこの店も知っている、断片的な記憶を辿るように話してくれた。そして、少しずつ忘れていってしまうことがこわくて悲しい、私はおかしくなってしまったのか と私に言った。私は、いずれみんなそうなるからあなたが変なわけではありませんよ と言った。実際に、認知症になること自体を防ぐ技術は今のところない。遅いか早いかの問題で、みんないずれ忘れてしまうようになるのだ。

歩いても5分かからない道を10分ほどかけて歩き、やっと交番へたどり着いた。お巡りさんは慣れた様子で話を聞いてくれ、お姉さんは帰っていいですよと言った。おばあさんはすごく不安そうだった。お巡りさんがお家をさがしてくれますから、大丈夫ですよと私は言った。おばあさんはまだ不安そうだった。小声で私に、ぎゅっとしてもいいですか と言った。私は声をあげて泣きそうになった。おばあさんの細い身体をぎゅっと抱きしめて、さよならを言った。ほんとうは一緒に家をさがしてあげたかった。

アルバイト先に帰ると、もう退勤の時間だった。タイムカードを切って帰宅し、この曲を一気に書いた。喜びも悲しみもいずれ忘れてしまうのなら、曲に閉じ込めて他の人に覚えていてもらおう と思った。

あのおばあさんが家に帰れたかどうかは私は知らない。
私のこともきっと忘れているだろうけど、あの日あなたに会えてお話しできたことは私にとって宝物の記憶です。

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