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印刷された言葉は、聞くのではなく、見ることによって把握される

2020-21年いろんな展示を見る中で私的にダントツ感銘を受けたのは石岡瑛子展でした。もともと中吊りとか街中のポスターを見るのは好きなタイプだし、書体を見るのも好き。私がフライヤーを集めているのも1枚のフリーペーパーでさえも作品として見ているからかもしれない(そのデザインを作家本人がデザインしていなくとも)。広告にお金かけるってそう言うことかってなる。フライヤーが素敵だと好奇心掻き立てられますしね。たかが紙切れ、結構大事。
(新しくなった原宿駅の正面、新鮮さのある明朝体の駅名といかにも山手線っていう看板が共存しているのが気持ち悪いのは私だけ?)

前置きはさておき、私は庭園美術館でやっている20世紀のポスター展に滑り込んできたんですよ。

20世紀のポスター[図像と文字の風景]―ビジュアルコミュニケーションは可能か?

どの時代も私たちは選択することが出来て、ポスターや広告は目的がなければ見る/見ないを無意識に選ぶことができる。そもそもポスターは見られないことをスタート地点として制作されているらしい。

だから意識して見るという選択をし、少なからず仕事に生かしている。(職業はアパレルだが)たまたま私はそれが視覚的な正解のない表現なだけで、人によっては映画だったりゲームだったり、音楽だったりラジオだったりするのかもしれない。

それをさらに美術館でみると言う違和感が面白かった。情報としての役目を終えてしまった、ただのポスター。それは作品であり、デザインであるけれど、20世紀のポスター展は歴史を見ているといった方が近かったかもしれない。

石岡瑛子展も佐藤可士和展も見る/見ないの選択ができる日常に溢れているものたちだったけど、歴史といえば歴史だし、でもそれはタイムレスであるべき物たち。

フォントってSNSが当たり前な世の中じゃ見る見ないの選択ではなく受動的な物ですよね。だからこそフォントにも種類があってトレンドがある。お店で何かを作る時も(張り紙とかフォーマットとか)見やすいに越したことはないですし。
だからタイポグラフィのポスターが1番見入ってしまったし、難しい。ちょっと書体やサイズが違うだけで全く違うものになり得るし、深さに感動してしまった。


会期終了日に何書いてるんだって感じだけど、これは図録だけでも買う価値あるなと思います。

私は帰りに目黒駅前の本屋でいろんなフォントのみが載っている本を買いました(笑)

インスタレーションもいいけど広告とかコピーとか増えると嬉しいなと思った最近でした。

では、また。

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