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鷲田清一『じぶん・この不思議な存在 』[20220628]

https://www.amazon.co.jp/じぶん・この不思議な存在-講談社現代新書-鷲田-清一/dp/4061493159


問いが生まれるのは自分が異常事態に直面しているときである。生活が順調で正常に進んでいるならば、そこに問いを見出すことはないだろう。

「自分とは何か」という問いを立てるときは自分が弱っているときである。「自分」というものはまだよく分かっていないけれど、そのよく分かっていない何かが弱っているのである。『じぶん・この不思議な存在』で主張されているのは、「自分」は他者の他者として、他者との関わり合いの中にその都度存在するということだ。すなわち、自分が存在するのは、他者がいて、その他者と自分の間に何らかの関係があるときである。

他者と他人は違う。例えば自分の家族は他人ではないけれど、自分にとっての他者とはなり得る。関係にも色々ある。片方がもう片方の手助けをする関係かもしれないし、お互いに嫌い合う関係かもしれない。関係があるとは、互いが互いを認識し、影響を及ぼし合っている状態にあることだ。関係は具体的な他者(例えばコンビニの店員や母親など)とその都度発生する。そして関係の発生と共に自分が誕生する。「自分とは何か」という問いに一般解が存在しないのは、自分は他者との関係に依存して目まぐるしく変化するからである。

関係の発生には他者の存在が必要である。「自分とは何か」と問いを立てるとき、私たちは大抵ひとりである。この問いを立てるときには決まって自分が弱っているものだと書いたが、そもそも自分が不在なのである。他者と関係を築き絶えず変化していく自分に対して「自分とは何か」と問いを投げかけることはない。それは、それが正常だからである。

他者との関係の中で都度誕生する自分をまとめるのが、物語である。「『わたし』とはわたしが自分に語って聞かせるストーリーである」という考え方は印象的だった。ストーリーは自分の持っている属性の単なる組み合わせではない。組み合わせ方はどんなに属性の数が多かろうと有限であるが、ストーリーの紡ぎ出し方や物語への解釈の与え方には無限の可能性がある。

「自分とは何か」という問いが頭に浮かぶとき、おそらくそこに「自分」はいない。「自分」は他者との相互作用によって生まれることを忘れてはならない。



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