疱瘡と俳句
今年二月、『季語になれなかった疱瘡』(海鳥社)という、一風変わった書籍が刊行された。著者の辻敦彦(敦丸)は小児科医である。本書執筆のきっかけは辻の所属する知音俳句会で代表を務める西村和子によってはしかが季語であることを教えられ、「ならば、疱瘡は如何かと調べ始めた」ことにあるという。考えてみれば、季語とされているもののなかには風邪や水中り、夏負けなど病にまつわるものがいくつか存在する。西村のいうように、はしかもその一つである。だが、冬の風邪や夏の水中りはともかく、一見季節との結びつきがそれほど強くなさそうに思えるはしかが春あるいは夏の季語として歳時記に掲載されているのは、不思議といえば不思議なことだし、はしかが季語になっているのなら、同じくウイルスによる感染症である疱瘡もまた季語になっていてもおかしくはない。では、なぜはしかは季語になり得て、疱瘡は季語になれなかったのか―。本書は俳句形式による表現史においてはしかや疱瘡がどのように現れてきたのかを辿りつつ、ある事物が季語として認識される/されないという事象の経緯や理由を考察した一冊である。
そもそも、日本において疱瘡はいつごろから認知されていた病であったのだろうか。辻によれば日本の史籍に疱瘡と思われる流行が初めて記載されたのは「『続日本紀』聖武の御代、天平七年(七三五)とされている」という。ここに「豌豆瘡」(裳瘡)として記載されているのが今日の疱瘡であるらしい。
また、疱瘡の起源地はインドであるとも言われるがはっきりしない。いずれにせよ、新羅との交流のなかで伝来したものであるようだ。その後、「疱瘡やはしかが、少なくとも室町時代後期の一五〇〇年代半ば頃から安土桃山時代には既に一般の人びとの間で当たり前に語られており、言い換えれば疱瘡、はしかは人々のごく身近な疫病だった」と辻は述べる。
後述するように、疱瘡が季語になれなかった理由の一つとして、辻は種痘や植疱瘡の普及によって疱瘡が制圧されたことを挙げている。イギリスのエドワード・ジェンナーが牛痘種痘法を発表したのは一七九八年のことである。これは、牛痘ウイルスをヒトに接種することでヒトの疱瘡に対する免疫を獲得させ得ることを実証したもので、疱瘡の消滅に大いに貢献することとなった。このジェンナーの牛痘種痘法が日本に伝えられたのは発表から間もない一八〇三年のことだった。伝えたのは長崎の商館長であったヘンドリック・ドゥーフという人物である。なお、このドゥーフなる人物は「初めて俳句を詠んだ西洋人でもあった」という。
ただ、このドゥーフによる情報は広がることはなく、ジェンナーの業績が日本で知られるようになったのは約半世紀後の一八四七年、小山肆成によって『引痘新法全書』が公刊されてからのことだった。つまり、日本では江戸時代末期まで牛痘種痘法が広く行われることはなかったのである。その後も江戸幕府と役人、漢方医らによる牛痘種痘法への警戒心が強かったこともあり普及はさらに遅れ、明治期に入っても政府の努力にもかかわらず大流行が発生、明治四二年に種痘法によって接種が義務化されることによってようやく罹患者数が減少したという。近代に入っても次のような句が見られるのは、明治期が種痘の普及において過渡期にあたるためであったろう。
さて、このような経緯から、疱瘡は少なくとも江戸時代までは人々にとって身近な疫病であったと考えられる。芭蕉や蕪村の句のなかにも疱瘡にかかわる作品があるが、疱瘡の句がとりわけ知られているのは一茶であろう。本書でも次の句が紹介されている。
一茶の句のなかでもよく知られているこの作品は『おらが春』に収められている。この世のはかなさをあまりに率直に詠んでいるさまに心を打たれるが、『おらが春』を繙くとこの句の前に次のように記されている。
五十歳を越えて帰郷した一茶は若い妻を迎え三男一女をもうけた。ここに記されている「千代の小松の、二葉ばかりの笑ひ盛りなる緑り子」とは、夭逝した長女さとのことである。さとは、やはりここに記されているように、疱瘡に罹患して亡くなってしまった。この一文のさらに前で一茶は鬼貫の〈人の親の烏追けり雀の子〉や五明の〈夏山や子にあらはれて鹿の鳴〉を引き、「あらゆる畜類」に共通する「親をしたひ、子を慈む情」を思い、一茶は「何ぞへだてのあるべきや」とも記している。それだけに、いっそう疱瘡による長女の死に対する一茶の悲しみの深さが思われてならない。
さとの疱瘡については、さらに次のようにある。
「さん俵法師」とは桟俵(米俵の両端にあてる藁で編んだ円形の蓋)のことで、疱瘡が治ったことを祝って川に流したものをいう。辻はさとが疱瘡に罹る少し前に一茶が次の句を詠んでいたことも紹介している。
「水に流すと段々水を吸い沈んでいく。(略)そのさんだらぼしに蛙が乗り、共に流れて行く光景」であるというこの句は、疱瘡の回復を祝う庶民のいかにもほのぼのとしたありようを写しだしている。「雪解の峡土のほろほろ落るやうに瘡蓋といふもの取れば、祝ひはやして、さん俵法師といふを作りて、笹湯浴せる真似かたして、神は送り出し」たときの一茶やその家族のありようもまた、同様であったろう。とすれば、その直後にやって来た急死への悲しみはいかほどであったろうか。
では、このように身近な疫病であった疱瘡が季語として認められなかったのはなぜなのか。辻は一六四五年に刊行された季寄せである『毛吹草』の巻第三「付合」のなかに「疱瘡」があることを指摘している。辻のいうように「俳諧師に詠われるほど疱瘡が日常的な存在であった」可能性はじゅうぶんに考えられるのである。興味深いのは、『カラー版新日本大歳時記』(講談社)に「種痘」「植疱瘡」が掲載されており、「小学校入学前、卒業前に行われたので春の季語とされるが、天然痘が絶滅したために、過去の季語になった」という解説が付されているという指摘である。つまり、疱瘡ははしかなど他の感染症に比べて季節性が認めにくいうえに、種痘や植疱瘡の普及によって疱瘡が根絶されたことによって、逆に種痘のほうがかろうじて季語として認知されていた時期があった、ということなのだろう。
種痘の句はそれほど珍しいものではない。金子兜太の父で医師であった伊昔紅も〈こでまりの花さき種痘よくつきぬ〉と詠んでいるが、種痘の句はこのように明るさの宿った句よりも、むしろ、どこか翳りを帯びたものが多いようだ。それは、予防とはいえ身体に異物を接種するというふるまいそのものや接種後の副反応に感じられる痛ましさ、さらには腕に残る種痘の跡に象徴されるような遠い日の出来事の痕跡への淡い思いがどこからともなく悲しみを招き寄せるからであろうか。―しかし、いまやその種痘自体もまた、すでに遠い昔のものとなってしまったようだ。
(2023年3月記)
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