旧派の再検討―秋尾敏の近業から―

 今年八月に刊行された第八号をもって、『短詩文化研究』が終刊となった。同誌の前身は二〇〇五年に俳句図書館「鳴弦文庫」から出された『近代俳句研究1』である。鳴弦文庫は軸俳句会前主宰河合凱夫と、現主宰秋尾敏の蔵書をもとにした私設図書館として知られている。江戸後期から近代前期の俳句資料の研究に資するべく創刊された同誌だが、より広範囲の資料の考察を目指して短詩文学会が組織され、第三号から『短詩文化研究』となった。
 終刊号の特集は「橘田春湖研究」。春湖は教林盟社の設立者の一人だ。「春湖発句集」「十州紀行」「雲鳥日記」の翻刻のほか、秋尾による巻頭論文「橘田春湖の研究 国学・伊勢派という視点から」が掲載されている。春湖についてこれまでになく詳細なテキストが登場したといえるだろう。秋尾はこれまでにも、初期の著作『子規の近代 滑稽・メディア・日本語』(新曜社、一九九九)から近作『俳句の底力 下総俳壇に見る俳句の実相』(東京四季出版、二〇一七)に至るまで、多くの著作において旧派を論じてきた。また最近も『俳壇』誌上で二〇二一年から二年にわたり「俳句史を見直す」と題して、さまざまな角度から旧派について論じている。その最終回で秋尾はこの連載の要旨を次の四点にまとめているが、これらは秋尾の問題意識のありようをうかがわせる。今回の春湖論も、その問題意識のなかで書かれたものであろう。

①十八世紀末の国学によって俳人の俳句観は変わった。
②明治俳壇は天保時代から準備されていた。
③教林盟社と明倫講社は〈近代〉の俳句団体である。
④幕末の俳人たちは近代国家形成の大きな力となった。

 いずれの点も興味深いが、たとえば春湖、為山、等栽が中心となって立ち上げた教林盟社や、幹雄が立ち上げた明倫講社が近代の所産であったという指摘は、彼らが近代国家形成にあたって設けられた教導職にあったことを思いあわせれば、当たり前の指摘にすぎない。だがそれにもかかわらず、改めてはっとさせられる指摘でもある。「旧派」という、いかにも前近代的な呼称で彼らを括ってしまうことの弊害を改めて思わざるをえない。

 昨今、近代俳句は一茶に始まるという論も見かけるようになった。当然のことと思うが、一茶よりもさらに注目すべきは桜井梅室であろう。『俳諧七部集』に倣って無益な式目を廃し、秘伝を否定し、無季の発句まで詠んだ。まさに〈俳句自由〉の先駆者で、その門流には子規もいる。
 教林盟社を作り出したのも梅室の門流である。全国的な組織を作ったこと自体が近代化の所産であったことを見落としてはいけない。従来、旧弊な宗匠俳句の残党とみられていたが、とんでもない話で、旧来の門流を超えて結集し、国家神道という枠組みで組織された近代的な結社なのである。
               (「おわりに」『俳壇』二〇二二・十二)

 春湖もまた「教林盟社を作り出した」「梅室の門流」の一人である。秋尾は同特集の「橘田春湖の研究」において、春湖が伊勢派の流れを汲む俳家であり、さらには春湖が立ち上げに深く関わった教林盟社もまた、「国家神道という枠組みで組織された近代的な結社」、「全国に広がっていた伊勢派のネットワークがもとになった組織」であったことを指摘している。伊勢派とは、涼菟、乙由を中心とする伊勢蕉門のことで、芭蕉の説く高悟帰俗、軽みから派生した俗談平話を標榜し、平明卑俗な俳風を特色とした一派である。秋尾によれば、伊勢派は伊勢神道との関わりが当初から指摘されていたが、明治初期の国学者たちの論争にくわえ、神道内部での覇権争いが起こるなかで、「仏教を認め、キリスト教を黙認しつつ、伊勢神宮を背景に置いた天皇制による国家神道が形成されてい」ったのだという。

 当時の伊勢派の俳諧が、こうした動きの中にいたことを忘れてはならない。彼らが芭蕉を神として祀ったのは、国がすべての文化活動を国家神道に位置づけようとしていたからにほかならない。もともと伊勢神道に重なるところもある伊勢派ではあったが、芭蕉の神格化は旧時代に戻る思想ではなく、新時代のイデオロギーだったのである。

 子規は当時の俳壇の芭蕉崇拝を批判したが、それは、ともすれば旧弊な思想としての芭蕉崇拝を「新派」の子規が批判したということとして受け取られかねない。しかし、芭蕉崇拝がむしろ「新時代のイデオロギー」であったのだとすれば、子規の批判とは、ともに新時代を目指そうとするイデオロギー内での対立だったということになろう。これもまた、「新派」「旧派」という用語が見えにくくしてしまっていることの一つだ。
 弊害といえば、「新派」「旧派」と呼ぶことで、明治以降の近代俳句とそれ以前の俳諧との繋がりが見えにくくなっているのも問題だろう。折しも、今年は田部知季が「新派俳句の起源―正岡子規の位置づけをめぐって」(『アジア遊学』二〇二三・七)を発表した。田部はここで、「俳句における新派は日清戦争の終結と時を同じくして衆目を集め始めた」とし、「当初は主に紅葉や子規の経歴を念頭に置いた呼称」であったと指摘する。たしかに、帝大在学中から新聞『日本』で「獺祭書屋俳話」を連載し、同紙上に募集俳句欄を開設した子規にしても、硯友社を立ち上げて文壇に一勢力を築く一方で俳諧結社「紫吟社」を興した紅葉にしても、彼らは既存の俳諧宗匠とは異なるかたちで世に出てきた若者たちであった。田部は遠藤智子の言葉を引きながら、明治二十年代末から三十年代初頭は劇界や美術界を含め「社会的に新旧の相違が意識された時代だった」とも述べる。子規や紅葉が新派と見なされていった背景には、こうした時代状況があったのである。
 しかしながら、子規が生涯唯一の師と呼ぶ大原其戎は梅室門であり、その意味では、子規はそもそも旧派に連なる一人なのである。ただ、いくら子規が「余が俳諧の師は実に先生を以てはじめとす而して今に至るまで未だ他の師を得ず」(『筆まかせ』)と書いたところで、そのような「経歴」は「新派」という呼称によって見えにくくなってしまう。さらには、旧派宗匠をも抱え込む秋声会が結成され、子規や日本派が純粋な新派の立場を背負って立つようになると、田部の言うように「子規の提唱してきた俳句像を追認するように、新派俳句自体が「文学的」、「詩的」な俳句を志向する派閥として規定されていく」。新派内部におけるこうした変遷もまた、新派と旧派の間にあったはずの通路を見えにくくしてきた一因であろう。だからこそ、秋尾の次の指摘は重要だ。

 其戎の師は桜井梅室。子規が〈月並〉として軽んじた天保の三大家の一人であるが、いかに子規がそれを軽んじようと、子規は梅室の系譜にいる。だからこそ、子規は梅室の俳句をよく理解し、西洋の哲学や文学論によってそれを超克し〈近代俳句〉を作り上げた。
          (「旧派としての子規3」『俳壇』二〇二二・十一)

 秋尾の近業といえば、今年九月十四日から来年一月二十一日にかけて江東区芭蕉記念館で開催されている「旧派再考 ~子規に「月並」と呼ばれた俳家たち~」もある。鳴弦文庫の協力で成った同展の図録には次のようにある。

 天保時代以降の蕉風の動向については、まだ十分に調査されているとはいいがたい。特に明治期以降のことは、正岡子規に「月並」と呼ばれ、「旧派」という範疇に入れられてから顧みられなくなってしまった。
 しかし、時代の文化にはそれぞれの価値がある。近代文学という基準で測れば、多少は価値の上下をいうことはできるだろうが、それも主観的なことである。ある時代の俳句文化が劣っているというレッテルを貼られ、調査もされないというようなことがあってよいはずがない。                               
                       (秋尾敏「あとがき」)

 子規が「月並」と呼んでいたのは、類型、陳腐、俗、理屈、教訓調といった要素を持つ俳句表現であった。今回の企画展にもその意味での「月並」の句が散見される。

 翁忌や蛙も穴にかしこまり       武田物外
 何事にかうはすくれて富士の山     橘田春湖
 ひと足も無駄にはふまぬ田植かな    松島十湖

 その一方で、次の句などは一概に月並と呼んでいいものかどうか、俄には判断しがたい。

草華に広さをかくす千葉野かな      東旭斎
山くもまた薄雲の卯月かな        荒井閑窓
同人に及第多し更衣           小平雪人

 旧派内部においても、世代や地域による相違が見られる。また、同じ俳家であっても、必ずしも「月並」な句ばかりを詠んでいたわけでもない。それゆえ、旧派だから、一部の句が月並だからといって軽んじるのは早計であろう。さらにいえば、「月並」であるがゆえに否定するという評価のありかた自体もそろそろ検討されねばならないだろう。
 なお、同展では『俳諧明倫雑誌』のような旧派の雑誌のほか、多くの短冊や掛け軸が展示されている。そういえば、旧派と新派では用いるメディアに相違があったのだと気づかされる。子規にせよ紅葉にせよ、彼らの出自が新聞や雑誌といった新しいメディアとかかわりを持っていたということは先に述べたとおりだ。とすれば、新派の興隆は、旧派的なメディアの衰退と表裏をなすものでもあったはずなのである。たとえば返草(句合の賞品として入選句を清書し、彫師、摺師によって制作されるもの)に摺られた錦絵の美しさなどは、新派の興隆によって失われてしまったものの一つであろう。

 旧派の俳句メディアは、新派のもの以上に多様で美しい。短冊は色彩豊かで文字もみな個性的。一流の絵師による俳諧一枚摺も多く残されている。死絵など、俳句が書かれた錦絵も多く残っており、俳句文化が豊かに広がっていた時代であったことが分かる。こうした文化が見過ごされていてよいわけがない。                    (前掲「あとがき」)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?