明治二九年の或る別れ―田岡嶺雲の俳句観―

 先日、少し変わった論文を見かけた。坂本麻実子による「音楽と国語の二枚免許をもつ教員の養成 俳人大須賀乙字の東京音楽学校教授就任との関連から」(『富山大学人間発達科学部紀要』平成三一)である。乙字が晩年の数年間、東京音楽学校の教授を務めていたことはすでに知られているが、しかし、どうして東京音楽学校が乙字を教授として招聘したのかということについてはこれまで詳細に論じられてはこなかった。『大須賀乙字伝』(俳句研究社、昭和四〇)を著した村山古郷が、教授時代の乙字が行なっていた作詞について「乙字のあまりに知られていない俳句以外の業績」と評しているのは、乙字のこの仕事への注目度の低さをよく表している。
 坂本の論文にしても、乙字論ではなく、むしろ日本の音楽教育史研究の一つに位置づけられるものだろう。俳句や俳句史への関心を持つ者にとってはエアポケットに入っていたような乙字のありようが、そうした関心とは疎遠なところから―しかし当然の成り行きでもある―指摘されたのは、興味深い現象であった。
 乙字は大正五年四月に講師として採用され、そして同年八月に教授へと昇進し、国語、漢文、修身を担当するとともに生徒監を務めている。大正五年以前には麹町高等女学校の教頭などを務めていたものの、音楽教育とは縁遠かったはずの乙字が東京音楽学校に採用された背景について、坂本は次のように述べている。

東京音楽学校は明治二〇年(1887)の開学当初から国文学教員を採用した。国文学教員は専門の授業も行うが、創成期の東京音楽学校では西洋音楽の普及のために唱歌の歌詞を作ったり外国曲に日本語の歌詞を付けたりする「作歌」が国文学教員の重要任務であった。

 「作歌を担当する国文学教員の存在は大きく」、昭和六年にようやく作曲部が創設されたのに対し、すでに明治三三年には本科に作歌専攻の歌学部が、研究科に作歌部が設置されていたという。ようするに、当時の音楽教育における「作歌」重視という時代的背景と、漢学者・漢詩人として知られた筠軒を父に持つ乙字の素養と教育者としての経歴とが交錯するなかで、乙字の東京音楽学校教員という、今から見ればやや奇妙にも思われるような出来事が生じたわけである。
 ところで、ここで改めて気づかされるのは、乙字は別に俳句ばかりに詳しかったわけではなく、おそらくはより広い文学的な素養のなかで俳句について思考していたのではないかということである。
 これは乙字に限ったことではなかっただろう。というよりも、俳句にばかり詳しい俳人などというものが存在している今日のような状況のほうがむしろ特殊なのではないだろうか。本来、「俳句」と名指される詩形式は―とりわけ明治期においては―その価値やジャンルとしてのありようが不明瞭なものであった。しかしそれゆえに、「俳句」なるものを価値づけ、そのありようを明瞭にしようとする欲望を絶えず生み出してきた。そうして、その欲望を具体化する手続きが次第に先鋭化してしまったことが、今日の俳句評論のアポリアを生んでしまっているのかもしれない。
 そういえば、先日落手した『渋川玄耳句集』(高田素次編、青潮社、昭和四八)のあとがきには、玄耳が明治三一年頃に俳句に手を染めた際、「標準」がわからず、漱石に教えを乞うたと記されていた。この「標準」にしてもおよそ混沌としていたものだったにちがいない。
その混沌ぶりをよく示しているのは、玄耳に先んずること十数年前、いまだ新派の呼称も浸透していないころに俳句に手を染めた田岡嶺雲の俳句観である。
 嶺雲は明治期に活躍した批評家・漢文学者である。大野洒竹が明治二七年に主唱し結成した筑波会での活動でも知られているが、その俳句をまとめて読めるテキストはなかった。しかしながら今年『田岡嶺雲全集』(全七巻、西田勝編、法政大学出版局)の刊行がついに完結し、その俳句評論やエッセイなど、嶺雲と俳句との関係をより立体的に理解するための環境が整備された。
 嶺雲が自らの俳歴を語った「俳諧數奇傳」によると、大阪官立中学校在学中、重い胃腸炎のため郷里である高知に帰った際伯父から手ほどきを受けたのが始まりであったらしい。興味深いのは、嶺雲は当初、漢詩の美意識に依拠しながら句作を行っていたことである。

初めてやつた句が、漢詩にある何とかして竹外ノ一枝といふ句から思ひついて、藪の外の梅の花といふやうな事を言つた。ところが先づそんな事だと言はれたので、いろいろ稽古をした。(略)その中に或時、雪の題が出た時に初めて僕が巻を取つた。その句は自分では面白くないと思つてゐるんだが、雪の句は沢山あつてどんな事を言つてよいか知らなかつたから、漢詩の竹に雪が降つてゐたが夜中に音がないやうに静かになつたといふのから考へついて、
 笹の雪音なき程に積りけり
とやつた。

 その後、明治二五年四月に正岡子規と出会い、以後嶺雲は明治二九年頃まで句作を継続していたようである。子規と出会った翌年(明治二六)四月には子規の家で内藤鳴雪、伊藤松宇、藤井紫影、高浜虚子とともに句会も行なっている。子規が「獺祭書屋俳話」を発表した頃のことだ。嶺雲は、日本派の俳人とともに本格的な句作を開始していたのである。当時、嶺雲もまた評論を発表している。全集を編んだ西田勝によれば、「嶺雲による文藝評論の第一着」は、俳論であるという(「解題」第七巻)。嶺雲の俳句への関心の高さがうかがえよう。
 筑波会での活動はこの日本派との交流と同時期に行なっていたものだが、時期的には日本派が先であり、筑波会結成以前、嶺雲はすでに句作や数編の俳論の発表を行なっており、鷗外や子規と論戦を交わすほどであった。
嶺雲のエッセイや俳論によれば、嶺雲は当初俳句の特徴を諧謔性に見ていたようだ。しかし次第に、禅のような「道徳」を説くものだと考えるようになったらしい。

僕の俳句に対する考はいろいろに変つたが、先づ初めは発句はをかしい事を言ふものだと思つてゐた。それから最初の中は季と句によむ事が余り附いてゐてはいけないといふ事が判つて来た。其頃には発句は決してをかしい事を言ふものではない、まじめなものであるといふ事が判つて来た。次には眼の前の事のうちの中心を掴まなければならないといふ事が漸く判つて来た。一時に又禅の本を読んでゐたものだから何か或判らん事を言ふものだと考へた時もあつた。つまり禅のやうに一種の道徳を説くもの、或意味を寓してゐるものだと解釈してゐた時代もあつた。(前掲「俳諧數奇傳」)

 また、嶺雲は自然の美だけでなく人事や歴史、崇高美をも表現できるとも述べている。嶺雲が俳論を多く執筆していた明治二〇年代末、文壇では死や貧困を扱った深刻小説(悲惨小説)が登場していた。社会的正義を唱え社会主義にも傾斜しつつあった嶺雲はその擁護者でもあった。人事を詠うことをよしとした俳論はこうした嶺雲の思想と一脈通ずるものがあるように思われる。
 さて、この嶺雲は明治二九年の津山尋常中学校への赴任を機に俳句から離れるが、まさにその同年、人事を詠むことへの関心を強めていった者がいた。それが虚子である。田部知季(「明治三十年前後の虚子俳論―日清戦後の「文学」の中で―」『日本近代文学』平成二九)によれば、「日清戦後という時代相の下、国民の「理想」や複雑な人間社会を描くことが、新たな「文学」の課題として立ち現われていた」という。すなわち「理想」や「思想」を述べる「大文学」への期待が高まっていたのがこの時期であって、先の深刻小説も嶺雲による擁護論も、こうした時代的文脈のなかで登場してきたものであった。田部はこうした時流が俳句にも波及していったことを指摘している。「大文学」への期待の膨張に伴って、子規の影響のもと形成された叙景詩としての俳句の価値が相対的に低下するなか、虚子は「俳句というジャンルの許容範囲を再設定していく」ことになるのである。

 明治二十九年前半の虚子は俳句における「人事」に強く惹かれている。(略)当時の虚子は、名所旧跡の句や蕪村の句を称揚することで俳句における「人事」の追求を正当化し、叙景偏重の俳句観から脱却しようと画策しているのだ。

 田部によれば、当時の虚子の行論は「人事」のみならず「時間」「主観」を俳句に導入するなど「俳句を日清戦後文壇に「適応」させるための戦術性」を帯びているという。それはやがて非定型句の価値化にも結びついていく。こうした虚子俳論の揺らぎは、当時の時代的な文脈のなかでこそ生じたものであった。こうして見てくると、俳句の価値は今以上に可塑性に富んだものであったのかもしれないという気がしてくる。
また、翻って鑑みるに、「大文学」が待望される風潮のなかで俳句から去ったのが嶺雲であり、俳句にとどまったのが虚子だったという見立てもできそうである。そんなふうに考えてみるとき、「俳諧數奇傳」の次の一節がどこか痛切な気配を帯びて浮かび上がってもくる。

 それから二年程の間会へ出てゐた。正岡は病気だけれども未だ動けないといふほどではなかつた。二十九年に僕が津山へ行く時、送別の会をして呉れた。其時には〔佐藤〕紅緑や何か大分新しい顔が加はつてゐた、確か虚子もゐたと思ふ。夫れ以来、僕は句を作らないやうになつた。俳句の会へ出たのもそれが終ひである。

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