村野四郎の俳句

 昨年、岩本晃代が「村野四郎初期作品資料―『体操詩集』前後の俳句を中心に―」を発表した(『崇城大学紀要』)。村野の詩を理解する際に必要な初期作品を紹介しているだけでなく、村野評に安易に用いられてきた「俳句」なる語を問い直す手がかりとなる興味深い仕事だ。
『体操詩集』で知られる詩人の村野四郎が俳句に関心を持っていたことは、以前から指摘されていたことであった。たとえば鮎川信夫は「村野の詩的出発は俳句にはじまっているといわれている」(『現代日本名詩集大成』第九巻、創元社、昭和三六)と述べている。ただ、横山昭正が指摘するように、村野の場合、その詩的出発に俳句が深く関わっているということが、「技巧派」という村野のイメージと結びつけられるかたちで語られてきた。実際、先の鮎川の言葉には以下のような続きがあるのである。

村野の詩的出発は俳句にはじまっているといわれているが、技巧に対する意識は、たしかに歌俳の詩人に近く、いちじるしくクラフティである。

 横山は「時に漢字や名詞(特に植物の名称)・修飾語(特に副詞)の選択に凝ることがある」と指摘しているが、村野の詩に見られるこうした「読者の意表をつく秀抜な工夫」がしばしば「技巧」としてとらえられたようである。
もうひとつ、安西均による村野評を見てみよう。

日本の伝統詩(とくに俳句)についても深い透視力を持っている。詩的テクニツクにおいてなら、芭蕉の弟子で芭蕉以上といわれた野沢凡兆を想起する。(『戦後の詩』社会思想社、昭和三七)

 だが、こうした評価の是非を問う以前に、そもそも村野はいつ・どのようなかたちで俳句と関わっていたのか―考えてみれば、この点を丁寧に追った文献はあまりなかったように思う。たとえば『日本近代文学大事典』(講談社、昭和五二)の「層雲」の項には、「「層雲」で育った俳句作家たち」として、野村朱鱗洞や芹田鳳車、尾崎放哉、栗林一石路などと並んで村野の名が見られる。村野は荻原井泉水門下の自由律俳人だったのである。とすれば、村野の詩作に俳句からの影響があるとするのなら、それは「俳句」という漠然としたものからの影響というよりも、新傾向俳句に端を発する大正期の自由律俳句の読み書きや、当時の「層雲」という場における表現のありようからの影響であると見るのが妥当であろう。そうなると、鮎川や安西の評は多分に粗雑であやういものに見えてくる。
だがこのような粗雑な評が流通していたのには、これまで村野の俳句の全貌を知ることが困難だったという背景もあったろう。それだけに、今回の調査で確認できた二七六句を三期に分類して考察を加えた岩本の論考は貴重だ。
その第一期は「文章倶楽部」や「中央文学」に投稿していた一九一九年から二一年頃である。村野の父は「寒翠」と号し、俳句にも親しんでいた人物であるという。村野自身は、一三年頃に兄とともに家庭回覧雑誌「藻塩草」を作った際に、〈足袋をつぐばあさん日なたぼつこかな〉といった俳句を寄せたようだ。一九〇一年生まれの村野は当時一二歳。素直といえば素直だが、いかにも幼い表現である。
その後、一九年に村野哀醒という筆名で「文章倶楽部」へ、翌年から本格的に「中央文学」に投稿するようになる。

蚊柱や馬に餌をやる宵月夜       一九一九年
夕月に低き家竝や群れとんぼ
雑草に唐辛子赤く雨晴るゝ
蓮の葉いちめんに水汲む人のゐる朝   一九二〇年 
森の霧の静まり人歩みくる音
一日の仕事終へし夜の床に両足をそろへ

一九年の時点では、いわゆる有季定型の写生句の姿をしている。いずれも人の気配の漂うほの明るい情景を美しく詠んだ句だ。だが、翌年には自由律へと変化している。この変化について「村野四郎年譜」(大野純編『定本村野四郎全詩集』筑摩書房、一九八〇)には次のようにある。

定型俳句のマンネリズムを感じだし、文学の世界はもっと自由で荒々しくてもよいのではないかと思うようになり、自由な詩形をもとめて「中央文学」(春陽堂刊)の荻原井泉水選の新傾向俳句欄に投稿した。

村野の変化がこの記述どおり「定型俳句のマンネリズム」の打破を目指してのものであったとするならば、その目論見は当初から成功していたとは言いがたい。実際、〈蓮の葉〉〈森の霧の〉〈一日の仕事〉の三句はいずれも自由律でなければならないという表現上の理由が判然としないのである。だが、見方を変えれば、自由律という表現形式との接触を始めたばかりの段階においては、まだ自らが自由律で何を書こうとしているのか・何を書けるのかが明確には見えておらず、定型を崩していくことでこぼれ落ちていくものに懸命に目をこらしているように見える。
岩本は第一期の句について「主として日常の出来事をモチーフとし、荻原井泉水の説く「作者の内部から溢れ出た」「生命のある新しい俳句」を意識した習作群」と評しつつ、例として〈やさしう首ふる草の夕べとなりたり〉〈母よ鉢木青ううたせをる朝雨安けし〉を挙げている。モチーフは一九年に発表した定型句とさほど変わらないようだが、定型を離れることによって調べが自由になったためか、柔らかで叙情的な表現が現れてきている。たとえば、「やさしう・首ふる」という出だしはウ音で結ばれることでゆるやかに四・四のリズムを刻みながら「草の夕べと」へ移ろってゆく。全体としては八・七音のおおらかなボリュームで、これが夕暮れの静けさを引き立てる。原句は「なりけり」であったというが、井泉水は「けり」では、情趣的になりすぎる」として「たり」に変更したという。たしかに、全体として語彙やリズムが緩やかな情趣を読み手に呼び込んでいるだけに、安易に「けり」で結んでしまうと、緩やかさが締まりのなさへと転じてしまう懸念がある。だがいずれにしても、村野が定型ではなしえない表現へと早くも足を踏み入れていることがうかがえる。
第二期は一九二一年から二四年で、「層雲」に句を発表していた時期である。岩本によると一八九句―すなわち現在確認できる村野の句の六割以上がこの時期の「層雲」誌上に発表されたものであり、「詩は訳詩も含めて七十四余作品が同誌に発表されている」。村野の俳句だけでなく、その後の仕事を考える上でも重要な時期だ。
「層雲」が創刊されたのは一九一一年。つまり村野が活動していたのは創刊間もない頃のことであった。当時は井泉水が「光の印象」と「力の印象」を「緊張した言葉と強いリズム」でとらえた「印象の詩」としての俳句を提唱しており、それは早くも〈草に寝れば空流る雲の音聞こゆ〉(鳳車)〈あかあかと枯るる草たけをそろへて〉(朱鱗洞)といった句として体現されつつあった。また、井泉水が次第に心境的な句を志向するようになるのもこの時期のことだ。この変化と呼応するように、やがて放哉や山頭火らが名作を次々と発表していくことになるが、この「短律時代」が本格化する前に村野は同誌を離れている。ようするに、村野は短律時代以前の初期「層雲」の作家であった。

白う手を釣りて子が行く寒い昼道
熟れ麦の雨明るしびつしよりと濡れて家ある
病人目ざめこりこりと夜更の梨たべてゐる
白絣の若者として背丈見らるる淋しさである
くらげも乳房のやうに優しい海べにて恋ふること

この時期の村野の句には、鳳車や朱鱗洞ら同時期の作家と類似した作品世界が見られる。その一方で、一貫して死や病、若者の孤独や淋しさを詠み続けているのも特徴的だ。
また、岩本によれば、層雲社の句会に参加するなかで「更に自由な形式」を求めるようになり、同時に、ドイツ詩や萩原朔太郎の詩と出会うなかで、村野は俳句ではなく詩を自らの表現形式として選択するようになったという。
ここで興味深いのは、岩本が「初期の「層雲」はドイツ文学を中心にヨーロッパ文学の紹介にも積極的であった」と指摘していることだ。ドイツ詩との出会いには村野が慶應義塾大学在籍時に秋元蘆風や藤森秀夫に学んだことも大きいが、「層雲」がこのような場であったことも見逃せない。さらに、村野は一九二一年から俳句と並行して同誌に詩を発表しており、二四年末から翌年においては詩のみを発表しているという。岩本のいうように、村野の詩作の出発は「層雲」からなのであった。以後、村野は「層雲」から離れ、「地霊」「詩篇時代」「日本詩人」などへと活動の場を移していく。『体操詩集』の作品が書かれ詩人としての評価が高まったのは、それからまもなくのことだった。
やがて、一九三五年に「風流陣」が創刊されると、ここに第二号から参加している。同誌は北園克衛や竹中郁、城左門、田中冬二といった詩人が多く参加した同人誌である。約十年間の空白を経たこの時期を、岩本は第三期としているが、この頃になると村野の句は有季定型に戻っている。

相模路は埃にくるる桜かな
ハンカチに野苺つつむ妻なりし
てらてらと道はありけり梅もどき

このような変化の理由を最も端的に説明しているのは、「風流陣」で村野とともにあった北園克衛の言葉であろう。

 自分は俳句に柵や矢来をもうけて苦しむよりは伝統の上に気楽に寝そべつて、あるいは坐つて眼に映るものと心に浮かぶものとの交感に耳をすましていたいのである。(『郷土試論』昭森社、一九四四)

村野にしても、俳句を離れ詩人としての活動が本格化するなかで、以前のようにことさら俳句形式に「自由」を求めることはなくなったのではあるまいか。同時期の俳壇では新興俳句運動や人間探求派の作家らによって新たな俳句表現が追求されていたが、村野の句を見るかぎりそうした動向にほとんど関心がなかったように思われる。
なお、村野は戦後も句会に参加することがあったはずだが、岩本の提示した資料には戦後の句は見られない。タイトル通り、あくまでも「初期作品資料」の提示にとどまっている。戦後の作品の収集が行われ、その全貌が明らかになることを期待したい。

(2023年1月記)

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