杉田久女は語ることができるか

これは神経のたるんだ女の目からは、殊に俳句などといふ語は私ンとこに来て初めて聞いた程の女には、私が黙りこくつて頭を抱へたり眼を瞑つたりしてゐるのが何の故だか判断がつかぬから無理もない(中略)私は傍にあつたホトトギスを取つて先づ女流俳人十句集の所を見せました。そして霜山君の細君、零余子君の細君の名を教へた後に、虚子先生の一家が皆俳句をやらるゝ事も話して聞かせました。(落魄居「先づ交渉はありません」『ホトトギス』、大正四・一)
「おい。お前らもそんなにおてんばぢや困るではないか。今にお嫁にもらひ手もありやしない。ちつと俳句でもやれよ。これ、このホトトギスの女流十句集を見ろ。」とつきだしてやるのです。(春水「質屋の帳場より」『ホトトギス』、大正四・四)

 俳句史を論じるとき、近代における女性俳人の誕生を「ホトトギス」が大正二年六月から行なった婦人十句集以後に見る者は少なくない。婦人十句集とは、「ホトトギス」の男性俳人の身内の女性や参加希望者を集め、句を回覧方式で互選し、その結果を掲載するというものであった。先に掲げたのは、「ホトトギス」を購読していた男性による投稿である。「女流俳人十句集」「女流十句集」とは婦人十句集のことである。婦人十句集やそれに参加した女性たちが当時どのようにまなざされていたのかをうかがい知ることのできる文章だ。

 投稿者は、婦人十句集に参加するような女性を持つ家庭を、教育の行き届いた家庭であると考えており、具体的な目標としているようである。虚子によれば、「婦人十句集」創設のきっかけは彼が自身の家庭教育として俳句の教育を施す必要を感じたという、個人的な動機に基づくものであったらしい(「つゝじ十句集」『ホトトギス』、大正二・四)。もっとも、虚子が狙っていたのは、そうした家庭教育を公開で行なうことにより、虚子個人のレベルにおける「家長/家族」=「教育者/被教育者」の関係を男性たちと共有することにあったろう。というのも、虚子は婦人十句集創設の翌々年に「俳句と家庭」と称する投稿欄を創設し、男性が家族に俳句を教育する意欲をもっている(あるいは実際に教育を試みる)という物語を繰り返し掲載してゆくのである。

 この「俳句と家庭」欄は、読者から同名のテーマで文章を募集するというものであった。家族に教育を施すことで「良人が俳句を作れば、細君は句作を好まず、細君が句作に携はらうとすると良人はそれを喜ばぬといふやうな」「普通の家庭の実情」(高浜虚子「進むべき俳句の道」『ホトトギス』大正五・一)を克服し、俳句によって円満な家庭を構築しようする男性たちの語りは、同欄を通じて読者に共有されていった。そして、このような状況下にあって、彼らの価値判断をとりこむことで自らを律していく女性が現れるのは当然の流れであったろう。

家事以外には何もやらぬといふ女より、何か他の事をやる女には、よかれ悪かれ様々に批難をつけたがる世の中ですから、句作の一つもやる婦人は殊にそれぐの仕事を大切にし、性向に注意し、誤解を招かぬやうせねばならないと存じます。さうしてその家事の暇々に、最も多く自然に親しみを持つて而かも簡潔な文字で現はし得る俳句によつて心の糧を得ることは如何に幸福な事でありませう。(新井野里女「私の俳句観」『ホトトギス』、大正五・一〇)

 いわゆる「台所俳句」もこうした流れのなかで生まれたものであった。したがって、女性は台所俳句を書くとき、すでに作家としての主体性を奪われていたのであり、その意味において、台所俳句は決して女性による俳句の実践ではなく、むしろ女性の手を借りた男性による実践だったというべきだろう。だからこそ男性俳人は、それに飽きてしまったとき、再び女性を「教育」すべく、たとえば次のような傲慢な言いかたで台所俳句を批判することができたのではなかったか。

近頃の中央の某俳誌に女流の為に設けられた台所雑詠が無くなつたやうだ。それが無くなつてホツと息をしたのは、あながち僕ばかりではあるまい。あれこそ正に俳壇の女郎屋だ。奴隷的な屈辱的な泣き事で粉飾した俳句がズラリ並んでゐる所は、何のことは無い無自覚なスベタ女郎が哀れな顔を白粉で包んで顔見世をしてゐるのを見せつけられるやうな感がする。参政権の獲得まで主張する今日の婦人ではないか。奴隷としての女性の泣事でなく、所謂女性としての女性の哀訴でもなく人間としての女性の叫びが女流俳人からだつて挙つて然るべきである。それでなければ、真に芸術的な俳句は女流からは生れまい。この意味で台所俳句なんかはどしぐ叩き潰して了ふがいゝ、(素風郎「俳諧鳥語」『天の川』大正一〇・三)

 近代以降の女性俳句の系譜を単純化することは危険だが、たとえば婦人十句集を一つのエポックとするならば、女性の俳句とは、家長としての男性が「女こども」を教え導く教育の手段として俳句を女性に開放したという出来事と切り離せない出自を持っている。

 女性が自らの判断において俳句を読み書きするという行為が常に困難なものであったのは―そして現在もなおそれが続いているのも―この出自の根深さを物語るものであろう。妻や娘は男性に教え導かれる立場であり、したがって彼女たちの俳句創作は、あくまでも「女こども」の枠にとどまる限りにおいて認められるものであった。それゆえ、彼女たちが主体的に俳句を書き始めたとき、良妻賢母規範から逸脱する「悪い」女になったという自意識に苦しんだのは至極当然のことであった。星野立子でさえそうした悩みを告白したことがあったが、思えば、虚子が積極的な「玉藻」支援を通じて立子の庇護者としての立場を周囲に可視化し続けたのは、立子を「女こども」の枠内にとどめておくことで、立子の悩みを和らげようとしたのではなかったか。むろん、そのとき立子が虚子に明け渡したものは、決して小さくはなかったはずである。

 一方で、立子のようにふるまえなかった/ふるまわなかった女性もいる。その一人が杉田久女であろう。松本てふこは久女が自身の主宰誌である「花衣」に発表した「女流俳句の辿るべき道は那辺に?」という文章を引き、「男性からの批判を内面化してしまっている残念さはあるが、彼女が他の女性俳人の奮起を促し、ともに作家として立とうという呼びかけを行っていた事は注目すべきトピックである」と述べる(「笑われつつ考え続けた女たち~杉田久女とシスターフッド~」『俳壇』令和三・五)。久女はこの文章で「女なんか」と男性がけなす部分にこそ女性俳句の反省点と可能性が存在していると訴えているが、ここに典型的に表れているように、女性の俳句も俳句批評も、それを監視する男性のまなざしから常に逃れられない。それどころか、そのまなざしを内面化することで女性自身が自らを監視してきたのである。皮肉なことに、女性俳人の作家的自立とは、この種の「自律」を指すのかもしれない。

 そして、このような意味において自立/自律した女性俳人は、多分にホモソーシャルな共同体にあっては薄気味悪い存在だったろう。男性のまなざしを内面化した女性俳人は久女の他にもいただろうが、論作に長けた久女のように、いわば男性のまなざしの稜線を可視化するような女性のふるまいは、多分にホモソーシャルな俳壇にあって歓迎されるものではなかったと思う。岡田一実は「特に男性評者が久女の『情の濃さ』を主軸に照らしつつ『男をたじたじとさせる息吹』を賞めつつ評価を下位に置いたり、その真摯な姿を茶化して評するところがあ」ると指摘する(「俳句とフェミニズム」『フェミニズム文学ガイド』)。久女という薄気味悪い存在への拒絶反応として考えるならば、これは決して不思議なことではない。

 久女語りには数々の「伝説」がついてまわるが、これも同根であろう。死後、俳人のみならず松本清張や吉屋信子らによってその生涯が語られるなかで、師と仰いだ虚子との関係や周囲との衝突など、久女はその奇矯な印象が虚実ないまぜの「伝説」として流布したことはよく知られている。それゆえ、近年ではこれらの「伝説」を検証する多くの久女論が生まれてもきた。

 そうした久女論を牽引する坂本宮尾が、『俳句』五月号に「新発見 杉田宇内の書簡 天才俳人、久女を妻として」を寄稿している。坂本はこれまでにも新資料を紹介してきたが、今回は夫の宇内が久女の死後に小倉の和菓子店「福田屋」に送った複数の書簡である。その一つは久女の十年後の昭和三十一年のものだ。最晩年の宇内は「久女を如何に中傷し以て抹殺しようとしても、彼れの句は彼自身の句で独創的で、彼れの創作です」と記しているという。坂本は「故人の名誉を損なうような文章が数多く発表されており、遺族にとっては不本意な日が続いていたに違いない」と推測しつつ、自身も芸術に携わる者としての宇内が久女の独創性に敬意を払っている点に注目する。

 宇内といえば、久女が不満を抱いていた凡庸な美術教師としての姿が語られることが多い。芸術の道を諦め、俳句に熱中する妻をたしなめるその姿には、久女に比べるとジェンダー規範に従順な男性、という印象を受ける。だが、傷つく妻の傍らにあり、久女に敬意を持ち続けた人物でもあったのである。実際、坂本が以前から指摘してきたように、久女の遺品を整理・保管することで久女研究に貢献してきたのは他ならぬ宇内であった。

 久女は生前一冊の句集も持たずに逝ったが、その草稿には「昭和の文壇俳壇から永久に杉田久女といふ姓名、作品を拭い去ることは絶対にできなくなるに相ゐない」とある(坂本宮尾『真実の久女 悲劇の天才俳人 1890‐1946』藤原書店、平成二八)。生前の久女の自恃の言葉が、宇内の言葉と響き合うように感じられるのは、はたして偶然だろうか。もちろん、だからといって彼らの関係をたんに美談としてのみ語るのも違うだろう。ただ、芸術家になれず美術教師として生きた家長としての宇内と、女性の経済的自立が困難な時代にあって良き妻・母になれなかったという負い目に苦しみながら「天才」となった久女、という見立てもまた、ともすると、ジェンダー規範に従った男と従わなかった女という構図に矮小化しかねないという意味において、やはり危ういものだろう。

 坂本によれば、晩年、ひとり故郷に戻った宇内はようやく絵筆をとったという。たとえばこうした宇内の姿に目を凝らし耳を澄ますことこそが、彼らを安易に消費することから身をかわす方法なのかもしれない。

(2021年5月記) 

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