悲しみの宛先は―崔龍源の俳句―

 今年七月、詩人の崔龍源が七一歳で亡くなった。崔は本名を川久保龍源といい、一九五二年に佐世保市で韓国人の父と日本人の母のもとに生まれた。高校生の頃から詩を書き始めた崔は、やがて反体制の詩を書き続けた韓国の詩人たちに共鳴し、抵抗の詩を書くようになった。詩集に『鳥はうたった』(花神社、一九九三)、『人間の種族』(本多企画、二〇〇九)、『遠い日の夢のかたちは』(コールサック社、二〇一七)などがある。
 今回の死去を受け、「コールサック」(九月号)では崔の追悼特集を組んでいる。ここに、崔の遺稿として俳句作品「〈病中苦吟〉―妻―(必ず妻に渡して下さい)」が掲載されている。そのなかには〈澄む水にのどのかわきをいやしたり〉〈きつつきの大工仕事のせわしくて〉など、ごく素朴な句もあり、また、〈死に変わり生き変わりして田植えかな〉〈中くらいなりかなしみもさびしさも〉など既存の句を下敷きにしたものや、〈春は来ぬラクダの瘤にまたがって〉〈蟷螂の斧ぞ夕陽を砕きたり〉など、よく知られたフレーズを用いた句も見られる。病中の崔が五七五定型に身をゆだね、思いつくままつぶやくようにして句が織りなしているさまが想像されよう。ときに〈鑑みるかたちに咲きしごぎょう・はこべら・仏の座〉のような破調の句が見られるのも、定型への抗いや詩的効果を狙ったものというよりは、むしろ定型に安堵しているがゆえの緩やかな句作の心持ちの表れであろう。
 くわえて、副題に「妻」とあるように―また妻に宛てて書いたものであるらしいことからもうかがわれるように―この「病中苦吟」にはしばしば妻が詠み込まれている。

ひいさんと妻呼び慣れし春の野ぞ
恋しきはひーさん木槿咲ける日に
春ゆえにひーさんと呼び慣わせし愁みは
妻と共に生きたかりしよ蛍の如く
妻は手に虹採りてわが胸に置く

 崔は妻に幾度となく呼びかける。いや、句の中に直接的に呼びかけの言葉がなかったとしても、この「病中苦吟」全体が妻への呼びかけの言葉なのだろう。
 崔の晩年の詩に「遠い日の夢のかたちは」という作品がある。

 夢はひとつも叶わなかったね
 夢はみんな滅びていったね
 ぼくは妻と うまごやしの野原で
 無言に心と心で話し合っていた
 すると遠くの空に考え深げな雲が
 浮かんでいて それがとてもなつかしい
 気持ちをいだかせるのだった 妻も
 じっと雲を見入り 無言に
 何か話しかけているようだった

 晩年にやってくる悲しみを、崔は一人で抱え込んでいたのではなかった。妻と心のうちでそれを語り合うことで、それはやがて郷愁へと結びついていく。傷ついた心はそのようにして癒される。―崔はそんなふうに生きてきたのではなかったか。この詩を思い起こさせる句に〈木も雲もつひにあなたに愛されり〉がある。「木」や「雲」が「あなたに愛され」たとき、崔は「あなた」の隣で「木」や「雲」を見ていただろう。それらが「愛され」るまさにその瞬間を「あなた」の隣で見ていたことだろう。そして、そのすべてを病中において思い起こすようにして書き留めたのであろう。いうまでもなくそれは、そのような「あなた」を思うことで自らを癒し、生きていくためであったにちがいない。崔には〈さくらさくらしあわせはあきらめてはならむ(ママ)〉という句もあるが、最後まで「しあわせ」をあきらめなかったのが崔ではなかったか。
 その一方で、「病中苦吟」には崔の生い立ちを思わせる句も見られる。

 父の孤独を抱けば咲くべしにんにくの花
 書けざりし崔家の一族木槿咲く

 前者は、一見すると父への愛情を詠んでいるように見える。しかし、妙に生々しい「にんにくの花」がそこに咲き誇っているのはなぜだろう。

 母は父を殺したいと言った
 殺したいほど愛していると言うかわりに
 (略)
 民族が違うということも
 そのことでののしり合い 互いを
 けがし合い 憎み合ったとしても
 それはやはり 生きて
 愛を夢みたものの
 はかないあらがいにすぎず
 母は父の骨をいとおしく
 てのひらでつつみ
 帰らんばね 帰らんばね
 韓国に かえりたかったとやろが
 もう帰ってよかとよ と言った
 (「わがティアーズ・イン・ヘブン」)

 韓国人の父を持ち、日本人の母の私生児として育った崔は、韓国と日本のはざまで苦悩する父母の悲しみを見つめ、また自らもその出自に向き合い続けた。「ティアーズ・イン・ヘブン」では、父に対する母の憎しみが、父の死を契機にしてついに愛情へと転化していくさまが記されている。ここには「韓国に かえりたかった」父の孤独と向き合い、その孤独を抱きとめ、父を―おそらくこれまで自らの生を踏みにじってきた悲しみの大きな要因であったであろう父を―許そうとする母の姿がある。
 崔にはまた、父の死を詠った「骨灰」という詩もある。

潮騒は鳴っていた サラン
サランと 父の骨灰を
海は その身に溶かし込みながら

やがて黄海の魚は美味しくなるだろう
父の骨灰をたらふく食べて
父が一つの生の実りへ入って行ったあかしに

 この詩においては、父に対する「サラン」すなわち愛が、ほとんど手放しのそれのように詠われているが、同時期の崔が「わがティアーズ・イン・ヘブン」を書いていることを思えば、ここでの父への愛がそれほど単純なものではないことがわかる。実際、崔の娘である川久保光起は今回の追悼特集によせた一文で次のように書いているのである。

 こちらが物心ついてから高校生の頃までは、父は毎晩のように酔って帰って来ては、朝鮮人と差別されてきた自らの生い立ちをとつとつと語った。不当な権力や社会に対して、世界は腐っていると激しく憤った。激しさのままにわかったかと問われても、「はい」としか言えないことが多かった。どうして毎晩憤るのか、父自身でも御しきれていないような感情の塊が何なのかはわからなかった。(「詩を生み出す泉のような人」)

 したがって、「骨灰」は、父への手放しの愛というよりも、父との精一杯の和解が刻み込まれた詩であるのだろう。とすれば、〈父の孤独を抱けば咲くべしにんにくの花〉に漂うある種の生臭さの意味も了解される。すなわち、「父」とは、その生においてさまざまな者たちの愛憎を生み出してきた存在の謂であった。そしてそれゆえ、その「孤独」を引き寄せ、「父」を身の近くに感じながらその「孤独」を抱きしめるとき、「父」への憎しみを乗りこえて「父の孤独」を抱きしめているはずの者にさえ、その「孤独」に漂う生臭さが見えてしまうのである。いや、その生臭さをも含めて、すべてを抱きしめているのがこの句なのだと言ったほうがいいだろうか。
 ところで、この「病中苦吟」の末尾には、「辞世」として短歌が二首置かれている。

少年の頬にひと筋のなみだの跡かなしみは生まれ来し日より
少年は春の綿毛を吹きしのち駆け出しゆけり地球の外へ

 この「少年」は崔自身であろう。自らの出自にまつわる悲しみは、決して最後まで消えたわけではなかった。とはいえ、この歌には悲しみを抱えてきた自らの生を振り返るとともに、そのように悲しんでいた「少年」としての自らを、すでに大人になった自身が見つめ、その悲しみを抱きとめているようでもある。ここには、少年時代から続くどうにもならない悲しみへの切ない慰撫と、その悲しみにたった一人で向き合う者の孤独がある。思えば、崔は父母の悲しみや孤独を抱きとめてきたが、崔自身には抱きとめてくれる者がいたのだろうか。それを思うとき、この遺稿が他ならぬ妻に宛てて書かれたものであるということの意味も見えてくるようだ。
 他方、二首目は明るい印象を受ける。「辞世」という詞書がなければ、若々しいエネルギーが地球の外へと突き抜けていくような、生命力にあふれた少年を詠っているような歌である。ただ、これには、俳句作品のなかに類似するものが見られる。

たんぽぽの綿毛となりしかなしみは
おほかたは旅立ちにけり地球の外へ

 とすれば、歌にある「春の綿毛を吹」く、とは悲しみを吹いているのだろう。むろんその悲しみとは、もう一つの辞世の歌の少年が抱えた悲しみである。自らの身に張りついた悲しみをじゅうぶんに悲しんでから、少年はその悲しみを吹き散らす。そのようにして、悲しみから身をふりほどいていく。そうして、「地球の外」へと駆け出していくのである。そこは「おほかた」がすでに旅立った場所だ。そこには若くして命を断ったKもいる。Kは光州事件で知人を亡くした崔の横で涙を流してくれた人物だ。父もいる。この世の悲しみから解放された場所で、崔は誰と出会うのだろうか。

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