小川軽舟をねたむ―「掌をかざす」について―

 小川軽舟の第三句集『掌をかざす』(ふらんす堂)を読み返すたびに、僕は何かを書きたいという衝動に駆られるのだが、やはりそのたびに手が止まり、どうしても書き進めることができないのはなぜだろうのはなぜだろう。

 これは二〇一四年にふらんす堂のホームページに一年間にわたって掲載されていた「俳句日記」をまとめたものである。だから、それぞれの句には日付と短文が添えられているが、巻頭にあるのは次のような正月の記述である。

一月一日(水)
元旦は父の家に行く。
父と一緒に母の墓参りをする。墓石にあけましておめでとうと言う。
母が死んで四年が過ぎた。父の一人暮らしも四年になる。
東京駅で買ってきた弁当を父と食べる。
次の父に会うのは盆休みだろうか。
日のあるうちに帰る。
  初日記一日がもうなつかしく


一月三日(金)
我が家の三が日は雑煮とお節で過ごす。
妻のつくるお節で私のいちばん楽しみなのが慈姑。くちなしに染まった慈姑は面取りの稜も凛々しく、ほっこりした食感がまたたまらない。
子どもたちはこの妙味を解さないので、私が最後の一つまで惜しみつつ平らげる。
  節穴に小首傾げぬ嫁が君

 ここにあるのは、平凡な家族の暮らしである。『掌をかざす』にはこうしたささやかな暮らしが全編にわたって記されている。単身赴任先でのこと、家族とのこと、日常のなかにあるちょっとした楽しさや寂しさ―一見すると他愛もないものごとをたまたま書き付けたような体裁の句集だが、それらを一年間にわたって書き続けている小川の姿勢を鑑みるならば、これはたまたまそのように書いたというようなものではなく、書き手としての揺るぎない姿勢が体現されたものだと考えるほうが妥当だろう。実際、小川はあとがきで「俳句はささやかな日常を詩にすることができる文芸である。(略)俳句日記は図らずもそれを一年通して実践することになった」と述べている。

 しかし、『掌をかざす』を読み進めていくうちに、僕にはこの「ささやかな日常を詩にする」という小川の姿勢がどこか妬ましいものに感じられた。

十一月十二日(水)
六甲山の山裾にある岡本の町に時雨が降る季節になった。
一軒家からマンションに移って雨戸のない暮らしになったのが何となく物足りない。
  雨戸一枚繰りて時雨を出勤す


十一月十三日(木)
勤め先の本社ビルの前には十数本の欅の木立がある。
新緑の頃、熊蝉の鳴きしきるころ、紅葉し、やがて落葉するころ、それぞれの表情の欅を見上げて、今日もしっかり働こうと思う。
ちなみに本社ビルは十階建て。自慢するほど高いわけではない。
  欅落葉仰げば本社ビル聳ゆ


十一月二十四日(月)
振替休日、妻と映画を見に行く。
角田光代原作、吉田大八監督、宮沢りえ主演の「紙の月」。銀行で契約社員として働く平凡な主婦の巨額横領事件を描く。
私の妻は四年間だけ銀行で経理をしたが、悪い誘惑を知らぬうちに寿退社した。
  OL四年主婦二十年葱刻む

 小川のいう「ささやかな日常」は、時としてこうした記述をもって示される。僕は一九八三年生まれだが、僕と同世代あるいは僕よりも下の世代で、こうした生活を自らの将来に期待できる者はどのくらいいるのだろう。ここに書かれている一見すると平凡な生活は、いまや平凡な生活としてのリアリティを失ってしまった。僕が『掌をかざす』を読んでいて何となく妬ましくなってしまうのは、これがいまやファンタジーになりつつあるにもかかわらず、ごく平凡なものとして悪気なく書かれてしまっているからだ。

 僕は、『掌をかざす』のなかに、二十年後の僕には決して訪れることのない「平凡」な生活を想像する。むろん、社会状況の変化に伴い「平凡」さが変質したからといって、小川の俳句で描き出される「平凡」の美がまるでわからなくなってしまうということはないだろう。しかし、それを理解していてもなお、一抹の寂しさが去来するのをどうしたらいいのか。

十二月十三日(土)
「また温泉に行こうか」と妻に聞く。
「温泉もいいけど、家族旅行しましょう」と妻は言う。
子どもたちは今更家族で旅行したいだろうか。
「スキーはどうかな」
「スキーは嫌だって」
ところが沖縄なら行ってもいいと娘が言っているという。(続く)
  焚火目に沁む家族とは親子とは


十二月十四日(日)
「沖縄だって冬は泳げないよ」
「そうじゃなくて、タイガースのキャンプに行きたいんですって」
「俺はタイガースは興味ないけど沖縄なら行こうかな」と息子も言うので来年二月の家族旅行が決まった。
  家族とは焚火にかざす掌のごとく

 句集名はこの十二月十四日のこの句に由来するのだという。僕は、このような「平凡」な家族の会話でさえ、いつかファンタジーになってしまうのではないかという気がしてならないのだ。いや、すでにそうなりつつあるのかもしれない。もし、こうした会話でさえも平凡なものでなくなってしまったとしたら、それでも、僕はこの句からささやかな美を受け取ることができるのだろうか。

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