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vol.011「気づいたら、少しだけマシな自分になること。」

2月19日、政近準子氏『マインドが服を着る ~ バースデー記念セミナー』を受講しました。FBでも投稿したけれど、noteではもうすこし詳しく書き足します。

参加費無料ではあったけれど、内容は有料セミナーに準じる。だから詳しい内容に触れるのは避けておく。

◆現時点の理解

「避けておく」と偉そうに言わずとも、たとえ書きたくても、とうてい再現しきれるものではない。
ファッションの知識や技術以外のメモから、特に響いたことを書き出してみた。

疑問を持つ、自らの頭で考えること
統計のなかの一人になって人生変わるのか?
社会問題、人間の困りごとにどうコミットするか
プロに囲まれて正しいことを言われるのは地獄
『あの人いいよ』という噂が立たないと食っていけない
私が死んでもその人たちが広げる
お金を払って試されている 誰も強制してない

政近準子氏『マインドが服を着る ~ バースデー記念セミナー』より


以下、現時点の受け止めとして、整理する。

・疑問を持つ、自らの頭で考える

「教わったことをうのみにするのでなく、疑う癖をつけよう」は、まっとうなプロフェッショナルの人たちが必ずと言っていいほど、強調するメッセージだ。「私(=先生・カリスマ講師)が教えることが唯一の正解じゃないよ」「自分の人生は自分の頭で考えるものだよ」と言っている。

逆に言えば、「私の言うことだけ聞いてればいい」と言われたら、「信じてはいけない」サインだ。「疑わずに信じなさい」は敬服ではなく盲従。科学ではなく宗教だ、と思ってる。

・統計のなかの一人になって人生変わるのか?

差異化、特徴のない、大勢のなかの一人になっても仕方がない。または、統計、平均=「みんなそうだから」を拠りどころにしても人生は開けない。善・悪とか大・小の問題ではなくて、ユニークかどうか。
希少性があるということはそれだけで価値を生む」と前から考えていて、すごくしっくりくる話だった。
「ユニークかどうか」に比べれば、「有名か無名か」「金持ちかどうか」は、たいした問題ではない。

・社会問題、人間の困りごとにどうコミットするか

社会問題に向き合うこと。すなわち、環境・資源・教育・貧困・働く女性・マイノリティーとしての人生・シングルマザー・飢餓・戦争―。なんらかの理、強いことばで言うなら"自分の正義"を設定していること。「好きになる人たち」に共通する要素だ。
この要素がまったく無い、という人は少ないだろうけど、いたとしても、ファン、リピーターとして続かない。人間の関心、何より好意は、「面白い」「機知がある」「有能だ」「有益だ」だけでは、長持ちしないのだ。

・プロに囲まれて正しいことを言われるのは地獄

講演のなかでも衝撃のくだりのひとつ。
"並の一流のプロ"は、正しいことを言う。表現方法を工夫して変化をつけて、厳しく叱責するか、ほかの受講生の前で指摘するものだ。それはそれで理解できる。「正しいことを言い控えるべき理由」なんてない。
「正しさは凶器でもある」の視点を持って、講演でそれをエピソードとして紹介できる人は、多くない。才能の問題ではなくて、視点、姿勢の問題だから。
「クライアントが楽しんでいない。プロ二人に囲まれて、正しいことを言われる。地獄ですよね」
言語化できる政近さんのすごさ、教え子がついていく魅力なのだと思う。


・『あの人いいよ』という噂が立たないと食っていけない

いい噂、評判、出処のたしかな口コミ。
食っていくために、すなわち仕事を獲得して正当な評価(報酬)を得るのに、必須の要素だと考えている。
30年前までは、「偏差値の高い大学に入り、留年を重ねずに進級して、就活でミスせず大手企業に新卒採用されること」だった。それに取って代わったものだ。
「ほんとうに良い情報は庭先取引される」という法則がある。市場にオープンにされてなく、対人の、直接の口伝てで流通していく。
「いい人を一人知ってるよ。紹介しようか?」「私もときどきお世話になってる、使わせてもらってるんだけどね」と言ってもらえるリストに入っているかどうか。思い出してもらえるかどうかは、ものすごく大きい。
※現時点、会社員サラリーマンとして無事に生きてるから、仮説だ。

・私が死んでもその人たちが広げる

自分が死んで居なくなったあと、理想なり思想が引き継がれていく。あとに続く人たちの手で、広がっていく。創業経営者か、芸術家が持つような視点だと思う。
私自身はまだこの感覚が希薄で、「自分が生きているあいだに、どう充実した、希少価値の高い時間をあゆむか」を重要視している。前述の社会課題、志(こころざし)を持っているかいないか(濃いか薄いか)の差だと考えている。

お金を払って試されている 誰も強制してない

お金を払ってるのに、新メニューを試される。その場で試験と改良が行われる。お金の流れでいえば"お客さま”のはずなのに、おもいきりストレスがかかる。
誰も強制してないのに、没頭してやってしまう。睡眠時間をけずって提出課題に取り組む。
いずれも、本気度の高い研修で、共通してかならず起こることだ。これは本当にそうだ。


◆人生を実らせるのは、良い人間関係

しばらく前から更新頻度の上がっている、政近さんnote。読み入ってしまった記事。


「それでも 同じことなんですよ。結局は同じことだから。」と。
私は、その瞬間、この気づきは、とんでもないものだと直感した。そして、彼らに出会えたことに マジで感謝した。

良かれと思って言ってそうで、実は自分本位。要するに、私はその日まで、そういう自分だった。

私はそのときから、少しだけ マシな人間になった。

「人生を実らせるのは『良い人間関係・元気・心の平安』です」より勝手に要約


基本的に謙虚であること。
過去にも書いてるけれども、「好きになってしまうプロ」の特徴だ。
ここでいう「謙虚」とは、たんに腰が低いとか、下手(したて)に出るとかいうことではない。
自身の位置を、相対化できること。「自分は不完全な存在である」という前提に立っていること。そういう姿勢。そういう人生観のことだ。

強烈な、重い気づきを得ることは、誰にでもある。もちろん私にもある。
そののちに、行動を変えたこともある。態度を入れ替えたこともある。
そこから、もたらされる結果が変わった経験もある。

けれども、後々、でなくその瞬間に、とてつもなく価値のあるものだと、ビリビリッとわかる感性は、誰にでもあるわけではない。
たとえば私は、数年経って気づくことがよくある。

「天然族」とでもいうべきか、目ざましい成果、異常なアウトプットを出せる人たちはしばしば、(もしかすると何かと引き換えに)この「瞬時に気づく感度」を標準装備していたりする。


その瞬間、この気づきは、とんでもないものだと直感した。
私はそのときから、少しだけ マシな人間になった。

政近さんの最近のnoteのなかでも、いちばん好きなくだりだ。

◆気づいたこと、走り書き

質疑タイムで、発言しながら、自分の考えを整理できたことがあって、ひとまず書き留めておく。

(メモ ここから)

・一流のプロの、本気系のセミナーに入学すると、「手厳しい指摘を受けるのではないだろうか」という不安がよぎる。毎回といっていいほど、起こる心理だ。
・「次の授業の日が近づいてきた」「宿題がろくにできていない」「ほかの受講生はすごいアウトプットを準備してるだろう」「自分だけ恥をかくんじゃないか」と、一種の恐怖のようなものがせり上がってくる。
・このとき、一流のプロという強敵(その場を支配する神)と対峙しているようにみえて、じつはその向こうにいる自分と戦っている。自分という闇、自分という怪物と格闘している
・自分自身を騙(だま)すことは、いちばん難しいことの一つだ。さぼったかどうか、手抜きしたかしてないか、自分では知っているからだ。

(メモ ここまで)


政近さんにかぎらないが、本気系の(上質な、または高額の)セミナーの真価は、「知識や正解を教わること」ではない。
熱心な個別指導を受けることでもない。技術を修得すること、できるようになることですらない。
「有能」になることではなく、「有意識」になることだ。
「その時点の自分」を見せつけられること。みにくい自分、見苦しい自分、不完全な自分に気づくことだ。

気づいて、そのときから、少しだけマシな自分になることだ。


もうひとつ、「自分の役割を提供してみる」という話。

いまの自分がこの人たちに提供できる価値って何だろうか、と考えて、試してみる。踏み出してみる。
実践して、喜んでもらえたことを、磨いて改良して整えていった結果、現在のコンテンツにもつながっている。平たくいうと、「食っていくための種」を見つける作業になっている。

すごく示唆に富むくだりだった。いま高名な誰でも、「はじめての舞台」がかならずある。相手が欲しがる、いま持っていない価値を提供することで、なんらかの報酬を得る。
その実戦練習が、将来の独り立ちへの準備になるのだ。

一言で短くいうと「自分には起こりっこないと思わずに、試してみよう」ということだ。


◆ゆくゆくの課題、どうするか


政近さんnoteを読み返してて、「結果を出して、生き残っている人には、継続する会、たまに立ち寄るとまり木のような場を持っている」と思いあたった。
彼ら彼女らは、本質的に希少生物種であり、孤立することはある。けれど、完全に孤独ではない。少数の仲間がいる。
それも、ゆるく柔軟な、「参加完全自由」の場がある。という仮説だ。

自身に置き換えると、友人は少ないほう、人間関係は永続しないほう(少なくとも増え続けるタイプではない)、同窓会の類(たぐい)には不義理なほうだ。自分で獲得したコミュニティだと続くが、すでに完成してて参加した組織(例:学校、会社)の過去のつながりが希薄になる。

これが、今すぐに解決すべき重要課題なのかまでは決めきれてない。ただ、「少数の仲間、立ち寄りとまり木のような場」を持っておくことと、「気づいて(自分のイヤなところを発見して)一歩マシに変わる機会をつかむこと」は、同じ土台にあるように思う。

いま持っているなら、離さないようにして、育てていくか、持っていないなら見つかるまで探したほうがいいのだろう、と考えている。

この話はたぶん続きます。

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