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スポーツ文化定着の礎は、Jリーグから始まった~1992年川淵三郎氏インタビュー

時は1992年2月。
Jリーグ開幕の、1年以上前のことだ。

スポーツは、文化である。
人生に感動をあたえるものはすべて文化なのだから、スポーツも、音楽や演劇と同様『文化』として語られるべきだし、文化として生活のなかに豊かに溶け込むべきだ。

こんな、荒唐無稽なことを言い出した男がいた。
現在の日本サッカー協会相談役、川淵三郎さんである。
ちなみに、当時の川淵さんのポジションは「Jリーグ設立準備室長」。
Jリーグ発足前なのでまだ「チェアマン」ですらなかった。

Jリーグは、確かにスポーツ文化としてのサッカーの振興を主旨に掲げ、「フランチャイズ環境(その後ホームタウンと言い換えられた)の整備」を宣って設立されたが、当時、日本にスポーツ文化が定着することを予想していた者は誰一人としていなかった(と思う)。

インタビューを敢行した私だって、川淵さんに期待し、最大限の賛辞を惜しまず、Jリーグの成功を精一杯応援することを心に固く誓ってはいたが、その「夢」の実現をどれだけ信じていたのか、今となっては、甚だ疑わしい。
到達に向かってチャレンジすることはあっても、到底手の届きそうにない目標の前で途方に暮れ、「悲願」に向かって頑張っている自分に酔っているだけではなかったか。

川淵さんは、変革の必要性を強調されていた。
スポーツに関わる企業のあり方、行政のあり方、メディアのあり方を変えていくこと。
また、スポーツを享受する個人として、我々自身の意識を変革すること。
まるで、そういった障壁をひとつずつ変革していくことが、スポーツ文化の醸成という大きな目標に到達することの「最短ルート」であることを知っているかのように。

川淵さんの眼は、きっと当時から100年構想のそのまた先を見ていのだろうと思う。
まさに慧眼(けいがん)である。

ところで、構成上は最初のパラグラフにまとめた「原点」だが、実際ここを引きだせたのは、インタビューの後半だった。
川淵氏の原点風景が私の脳内にハッキリと像を結び、かくしてこのインタビューが、リアルに自分の中にも入ってきた。
そんな不思議な感覚も手伝ってか、スッキリと記事が書けた。
川淵さんからも、「プロの取材でもダメなことが多いけど、素人にしては言いたいことをよく汲んでくれてよく書けている」旨の、お褒めの言葉もいただいた。

きっとお世辞ではなかったと思う。
お話を伺いながら、川淵さんと同じ風景を、確かに見たからだ。

1992年2月4日:インタビュー
1992年3月31 日:初版、その後加筆・修正

原点はヨーロッパにあった

川淵さんは3年程前からJリーグを準備なさってきましたが、「スポーツ文化」を定着させたいという構想は、いつ頃からお持ちだったのですか。

そもそものきっかけは、32年前にさかのぼります。
1960年当時、僕はオリンピック代表選手だったんですが、強化遠征に行ったヨーロッパで、すごくショックを受けたんです。

あれは、ドイツのデュイスブルグという街の「スポルト・シューレ(ドイツサッカー協会が作ったスポーツ学校)」でした。
敷地の中に、芝のサッカー場が7~8面、体育館が2つ、ボート遊びができる池、レストランや宿泊施設、それに医務室まで完備されていたんです。
その広大な敷地全体が林の中にあって、みんながのびのびとスポーツをしているんですよ。
僕はその時、「日本じゃ100年たっても、こんな環境にならないだろう」と思いました。
と同時に、「もし日本でこれが実現できたら、どんなに素晴らしいだろう」とも思ったんです。

これが理想の姿、僕の夢です。

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