見出し画像

ヨコハマ・ラプソディ 14

十四.雨やどり 

八月も終わりに近づいたある日、俺は根岸にあるレストランで、志織と一緒ランチを取った。この日訪れた店は、志織の話ではなんでもユーミンこと、松任谷由実さんが歌った曲に出てくることで有名だという。
俺はユーミンの曲は「中央フリーウェイ」くらいしか知らなかったし、志織が言う曲の名前も聞いたことはなかったが、志織は嬉しそうに目を細めながら、店の名物だという緑色をした飲料水を飲んでいた。
「ソーダ水の中を貨物船が通るのよ」
志織は片目をつぶり、グラス越しに外の景色を見ようとしている。
「へー」と言いながら、俺も後ろを振り向き窓の外を眺めてみたが、確かに海は見えたけど、貨物船らしき大きな船の姿は俺の目には映らなかった。それよりも手前の住宅やマンションが若干気になる。それらがなければ、港の景色がもっとよく見えるのに。

「信也さんも飲んでみて。美味しいよ」
「う~ん。俺はそういう緑色をした飲み物は、苦手なんだよなあ」
「えーっ、そんなこと言わないで。この店の名物なんだよ。ここに来たらソーダ水を飲まなきゃ。ね? 是非」
結局、同じものを頼む羽目になった。でも俺は志織が笑ってくれればそれでいいのだ。ただ、出された肉料理は、実に美味しかった。
店の中はほぼ満席に近かったが、やはり女性客とカップルが多い。俺は志織と付き合うことがなければ、こんなおしゃれな店に来ることなどまずなかっただろうと、ぼんやりと考えていた。
よく見ると、一人だけ男性の単独客がいることに気付いた。歳は三十代前半だろうか。勇気、あるなあ。ユーミンのファンの人かもしれない。彼のテーブルの上にも緑色のソーダ水が置かれていた。

俺は富田のライブ後の一件以来、食わず嫌いはいかんと思い、志織から松任谷由実さんの最新アルバム「PEARL PIERCE」と、他のいくつかの曲が入ったカセットテープを貰い聴いてみた。それと松田聖子さんの「赤いスイートピー」と「渚のバルコニー」、さらに「小麦色のマーメイド」を作曲した「呉田軽穂」という人が、実は松任谷由実さんであることを志織から教えてもらった。確かに三曲ともいい曲だし、それまでの、いわゆるアイドル路線とはやや異なった、大人っぽい洗練されたメロディーだなとは思っていた。
このレストランが出てくる曲は、貰ったテープの中には入っていなかったが、どうやらそれはユーミンが結婚する前の荒井由実時代の、割合と古い曲らしい。
カセットテープに収められていた曲の中には、確かに良い曲もあるのだけど、やはり、大半の曲は俺の耳にはあまりピンとこなかった。
ごめんな志織。あのカセットテープ、まだ三回くらいしか聴いていない。
同時期にもう一本、志織からダビングして貰ったカセットテープには、山下達郎さんのアルバム「FOR YOU」が収められていた。今まで俺が知っていた山下達郎さんの曲は、せいぜいCMソングとしてよく耳にした「RIDE ON TIME」くらいなものだった。
俺は、「FOR YOU」を聴いて、山下達郎さんが作る音楽の質の高さに舌を巻いた。日本人が作った曲も素晴らしい。日本の「ニューミュージック」ってなかなかやるじゃないか、とこれまでの考えを一気に改めた。
そのアルバムの一曲目、「SPARKLE」という曲は、これぞまさに「夏」という、初めて志織との夏休みを迎えた頃の、俺の気分にピッタリの曲だった。
「SPARKLE」を聴くといつも俺は、城ヶ島で見た青い海と志織のはしゃいでいた姿を思い出す。
もう一曲、同じアルバムに収められている「YOUR EYES」という曲を聴く度にやはり、城ヶ島でベンチに座って海を見ながら志織と抱き合ったことを思い出し、俺は胸が一杯になった。

レストランを出たあとは、店のすぐ間近にある根岸森林公園を訪れた。かつての競馬場の跡で、馬の博物館も併設されたずいぶんと広い公園だ。志織は子供の頃からよく家族と来ていたらしい。
この日は薄曇りでそれほど暑くもなく、二人で公園の芝生に座り、のんびりと話をした。
「さっきのレストラン、いい店だったな。料理も美味しかったし」
「うん。あのソーダ水も美味しかったでしょう?」
「まあ、そうだね」
「キャハハ!」
別にシャレのつもりはなかったのだが、けど志織が笑ってくれたのは嬉しい。それでも次回はできればソーダ水は遠慮したい。
味の問題じゃないんだよなあ。色がダメなんだよ、あの緑色。食品として不自然だろ。
すると、志織が急に話題を切り替えた。
「うちのお父さんの仕事ね、なんとかなりそうなの」
「えっ、本当か!」
「うん。心配かけちゃってごめんね。親戚の人からなんとかお金を借りることができたみたい」
「そうか! 志織、よかったな!」
「うん」
俺は大いに安心した。これで志織も、余計な雑念なしで受験勉強に専念できるだろうと、俺は本当に喜んだ。彼女にはどうにか無事に大学へ進学して欲しい。志織の実力を遺憾なく発揮さえすれば、それはきっと叶うはずだ。

このところ朝晩には少し秋の訪れを感じ始めた。夏ももうすぐ終わる。
夏休みが終われば、俺はもうこれまでのように志織とは頻繁には逢えないと思い、寂しくはあったが彼女のためなら我慢できる、いや我慢しなければと思った。
なあに、あと半年の辛抱だ。
あと半年経てば志織も高校を卒業して、そしたら………………。
なにを考えている。なにより、志織の大学合格が最優先だ。
でも、せめて声だけでもと思い、「志織。無理はしなくていいからさ、できるだけ電話はかけてきて欲しい。大丈夫?」と聞くと、彼女も「うん、わかった」と目を細めて微笑んでくれた。

実はこの頃、俺のほうも色々と問題を抱えつつあった。
共に寮自の執行委員を務めていた、仲のよかった同じ学年の加藤が寮を出てしまい、余計な負担が俺にのしかかってきたのだ。三年生だった俺と加藤は執行委員の中でも中心的役割を担っていた。彼がいなくなったことは俺には痛手だった。
それに寮の屋上補修に関する大学当局との折衝は、ほぼ行き詰まっている。寮の屋上からの水漏れは、最近かなり目立つようになってきていた。まだ寮生の部屋にこそ雨漏りはしていないが、強い雨が降る度に屋上はプールと化し、天井からしみ出した雨が四階の廊下やトイレに、水たまりを作っている。
やつらの魂胆は明白だ。寮の屋上補修を怠ることで建物の老朽化を進め、いずれ廃寮に追い込むつもりだろう。だから長年、大学の入学案内のパンフレットにも国立寮のことは掲載されていない。受験生に入寮案内のビラを俺たちが配っていたのも、そのためだ。
寮生がビラ配りをやらなければ、多くの受験生が法文大学に学生寮が存在することも知らないままだろう。現に俺も入試の時に入寮案内のビラを受け取って、初めて国立寮のことを知ったうちの一人だ。俺たち寮生は大学当局にはずっと、大学案内パンフへの掲載を求めてきたが、回答はいつも「NO」だった。
このままでは、いずれ近いうちに国立寮自治会として、大学当局に対するなんらかの行動が必要になってくる。その行動を起こすためには、寮自治会の最高決定機関である、寮生全員が参加する寮生大会において三分の二以上の賛成が必要だ。
ただ我々が行う行動に対し、拒否感を持ったり反対の意見がある寮生もいることだろう。それにここ数年、寮自治会として、いわゆる抗議行動的な類のものは行っていない。彼ら彼女らの理解を得るようになるまで、いくつもの会議で地道な話し合いを重ねる必要がある。そのための準備あるいは作業に、これから俺は相当の時間を割かれることになるだろう。
おまけにうちの大学では、三年生まではストレートに進級できるが、四年生になるためには決められた単位を取得しておく必要がある。俺にはまだ取得していない単位が、いくつも残っていた。そちらの勉強もやらなくてはならない。
問題なのが、語学の英語とフランス語である。中でもフランス語が厄介だった。フランス語の文法は俺には理解不能だったのだ。特に英語と比べて、複雑怪奇な過去形の文法が大問題だった。
「複合過去」ってなあに? 「半過去」と「大過去」って、どう違うの? 「近接過去」って、それ食えるのか? 「エスカルゴ」と違うのは俺でもわかるが。

そんな下らないことを考えながら、隣でユーミンについて熱く語る志織の話を聞いていた時、急に二人の頭上に大粒の雨が落ちてきた。
「キャー! 降ってきたー!」
「志織、走るぞ!」
俺たちは慌てて、雨宿りができる場所を求めて走った。
でも近くの雨宿りができそうな場所には、すでに誰かがいて、俺たちが入る余地はなさそうに見えた。それでも走り回って、なんとかやっと、誰もいない大きめの木の下にたどり着くことができた。
俺も志織も服はびちゃびちゃで、靴の中にまで雨がしみ込んでいる。俺たちは急いでハンカチでざっと頭や体を拭いてみたが、あまり意味があるとは思えなかった。
「凄い雨だね。ホント急に降ってきたね」
「うん。しかしまったく、天気予報で雨が降るなんて話、俺、聞いた覚えねえぞ」
「信也さん、風邪ひかないでね」
「ああ。志織こそ気を付けろよ。お前は受験生なんだからな」と頭を拭きながら俺は何気なく、隣に立つ志織を見た。
雨で髪を濡らした志織の顔に、俺は完全に目を奪われてしまった。

あれ? 志織って……こんなに、色っぽかったっけ?

思わずしばし見とれた。
ついさっきまで嬉しそうにユーミンの話をしていた時は、あんなに子供っぽい顔で笑っていたのに。
志織は空を見上げながらなにごとかつぶやいているが、彼女が話している言葉は、俺の耳には入ってこなかった。
ふいに目線を下に移すと、雨で濡れたブラウスの下に、彼女の下着がはっきりと透けて見えた。
ドクンと思わず心臓が脈打つ。
なにを見ている。
だが俺は、白い下着と、そこからはみ出す志織の胸から目を逸らすことができない。
おい! いつまで見ている!
どうにも、あの「キスして」発言から以降、俺は志織をそういう好色の目で見ることが増えたような気がする。
いや、気がするじゃなく、増えた。間違いない。大丈夫か? 俺。
志織がさりげなく、こちらを振り向く。まずい。
俺は思わず明後日を向いた。
今の顔、見られたかな。いやらしい目をしていたと思われたか。軽蔑されたらどうしよう。
でもその時、志織が俺の左腕を掴んで抱きついてきた。
よかった、と安心すると同時に左腕が感じた。
志織の柔らかい乳房の感触。
うぅぅ。
志織の胸はかなり豊満なほうだ。もちろん、正確なサイズは聞いたことはないから知らないが。
自分は元々、女性の胸の大きさには、あまりこだわらないタイプだった。大事なのは大きさじゃなく形だと。いや、そうじゃなくて。
だが、志織と付き合い始めた頃から、俺の好きな傾向は変わった。今では大きい胸のほうが好みだ。もちろん志織の影響である。
これまでも、彼女の胸をジロジロ見ないように気を付けていた。でも特に最近は、以前より間違いなくそちらに目が行っている。これはオスの本能としての部分が大きいとはいえ、やはりまずい。どうにかこんな自分を律しなければ、とはその度に思うのだが。
雨はまだ止みそうにない。いい加減早く止めよと、俺は空を睨んだ。
とはいえ、志織に抱きつかれていること自体は嬉しいし、なにより志織の胸の感触は、俺にはたいへん心地いいものだった。突然のにわか雨のせいでこんなことになったが、しばらくこの状態が続くのも悪くはない。今の状況を決して嬉しく思わない訳がない。
それは、そうなんだが。

このままだと、あまり長く自分を抑えておく自信がない。そう思う自分は、確かにそこにいた。
今すぐにでも、志織を抱きしめたい。なにより、キスまでもつれ込みたい。俺の衝動は強くなるばかりだった。
例えキスにまで持ち込もうとしても、志織は俺を拒否しないだろう、という妙な自信めいたものさえ、この時の俺にはあった。
今ならきっとイケる。やるなら今がチャンスだ。
俺の心臓の鼓動は、ますます激しくなってきていた。

俺は相変わらず明後日の方を見ながら、(とりあえず、とりあえずあと半年)と心の中で繰り返し必死につぶやいていた。
一方で。
その半年後も、志織は俺のことを好きでいてくれるのだろうか? という、なぜかふいにわき起こった漠然とした不安にかられながら、木の下で黒い雨雲が通り過ぎるのを、俺はずっと志織と二人で待っていた。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。