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東京は高田馬場。

横浜で育った僕にとっての東京は高田馬場でした。

母の母の母の住処かで、かつ、進学の為に中学時代に一人上京した母が父と結婚するまでの居候先だった、或いは、母にとって実家のような所が高田馬場にありました。

僕にしてみると母の実家は東北道も岩槻までいかないと始まらない時代に車でまる半日かかる東北の地がそれでしたから、ちいさい頃から耳にしていた「たかたのばば」という音は「高田のババ」と変換されたままだったりします。

母も、母の母も、もちろん母の母の母もすでに存命ではないにしても、です。

108歳で亡くなった、
前世紀の終わり頃に亡くなった母の母の母、
つまり、
多感な時代を共に過ごした筈の孫娘(=母)が、
兄妹のように高田馬場で共に生活していたいとことの「しんちゃん」と組んで、結婚に至る策をねってようやくと嫁ぐことの出来た旦那(=父)に、ひいおばあちゃん=高田馬場のババが、斡旋してくれた中古のパブリカが、実は盗難車であったという素っ頓狂な話を父から聞いたのは、つい最近のハナシです。

いきなり「車のことでちょっと署にご同行」は意味が分からなかったそうです。(もちろん"たかたのばば"は車を売りたい人を紹介しただけで、それを知らなかったそうですし、盗難車の転売の末が父だっただけでした。それにしても、、、な話ではあります)

しかし、僕にとって高田馬場のおうちの台所にふんふんいいながらいつも座っている貫禄のある高田のばばこそ、偉大なる母性の象徴的存在として僕の心に君臨していることに、あらためて気付きます。

僕の小説が「オンナのハナシ」ばかりなのは、身近の目立った親戚が女性ばかりだったことに理由を見つける方もおいでになるかも知れません。。

このたくましいおばあさんは、奥州出の明治女で、ほんとうに頭の良い立派な子供たちを沢山育てました。

僕が思い出すのは、学生時代、母のつくったおせちを届けに歩いた師走の"たかたのばば"です。山手線ではなく、休みに入って人気のない大手町から地下鉄を使ってむかう道筋が好きでした。

僕にとって東京は大晦日の高田馬場だったりします。


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