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《散文》学びたいこと

素敵なタグがありましたので、ふと思ったことを書いてみます。

第二詩集『てばなし』刊行時に、詩人の峯澤典子さんと対談をする機会がありました。
そのとき第一詩集『ひとつゆび』に関するお話もしたのですが、第一、第二詩集どちらのタイトルにも共通するのは「ゆび」や「手」だということ。
詳細はNoteにもまとめてありますのでご興味ありましたらお読みいただければと思うのですが、私は指先や手先というものに注目しがちな性質らしく。

最近、クラシックギターを学び始めました。これも確かに指を使います。
楽器に限らずほとんどの所作に手というものは使われるものですが、改めてギターにおける指使いに注目することが増えました。
まだ一つも楽曲を弾き切れていない有様なのですが、私が通う教室は個人で経営されているところで、先生はロックメタル出身の方。生徒さんの要望を一番に考えてくださる方で、たとえ生徒さんのレベルでは厳しい楽曲だったとしても、時間をかけてでもその「やりたい!」という思いを一心に受け止め共に走り続けてくださる、そんな先生なのです。

一曲練習中なのですが、日々隙間の時間を探しては弦を指ではじいています。気づいたのは、華麗に弾けることを目指してはいるものの、ただ練習に没頭するだけでも相当癒されるということ。
見知った大好きな楽曲のメロディーが少しずつ構築され、時に崩されてまた立て直される。その工程が楽しい。上手とは言えないのだけど、どこか救われている自分がいるのも事実みたいで。
これが音楽の力か、と感動しながら左人差し指の腹にできた弦の痕を見つめて今日も練習しています。

幼い日には親の教育方針でそこまで興味のないピアノを長年学び(今思えば楽譜もある程度読めるのでピアノを教わる機会を与えてくれた両親には感謝しています)、その反発だったのかはわかりませんが、ドラムにあこがれるように。当時、JPOPで好きなアーティストができたというのが大きかったです。彼らの音楽の後ろで響くドラムの音に気づけば夢中でした。そして、高校時代には軽音楽部でドラムを担当。ほかのメンバーはボーカル、ギター二人、ベースで、メンバーは自然と集まり組んでいたように思います。
当時の軽音楽部には三年生の先輩たちがいましたがほぼお茶会をしていて演奏する曲も一、二曲。活動もあまりしていなかったようで、軽音楽部の練習場所も合唱部と共有し、私たち一年生は場所取りの戦いを繰り広げることになったのも今では良い思い出です(笑)
このゆるい先輩たちの姿も、ある意味では大事なものだとも思っていて、好きな曲を好きなときに好きな人たちと演奏するその姿を今でもたまに思い出し救われる瞬間があります。
実績があるかないか、というベクトルではいわゆる弱小部だったのですが、それとはまたちがった価値観で先輩たちは私にとって心のよりどころでもあったのです。
その後、私たちの代では校外でスタジオを借り練習したり、文化祭での演奏以外に新宿のライブハウスで演奏したりと、すこしずつ活動を積み重ねていった結果、ありがたいことに入部する後輩部員が増え、存続の危機は免れました。

自分で選択した、しなかったに関わらず、昔から音楽や楽器は比較的身近にあるものでした。
でも、仕事や結婚などで環境も変わって忙しくなってくると楽器に触れること、さらには好きな音楽をまとまった時間でしっかり聞くこともなくなっていってしまいました。

では、なぜ大人になった今改めてクラシックギターを学ぼうと思ったのかというと、もともと父が弾いていて中学校の頃ギターを買ってくれたこともあり、ずっと頭の片隅にはあったのです。
なぜかギターはいつでも練習できるだろうという甘い考えで手をつけてこなかったのですが、様々なご縁もあって新しくやってみようと決意しました。
決意、といっても燃えるようなものではなく、凪のように心地の良いもの。
幸いなことに近所に教室もあったので、しばらくギターと向き合って、音楽を素直に愛していたときのあの日の自分を思い出したいと思います。

#今年学びたいこと

古屋朋