親鸞聖人手彫りの聖徳太子像が伝わる【第24回】瀧江御堂龍江山 蓮舟寺 (静岡県掛川市)〜最終回〜
ご旧跡紹介
親鸞聖人が常陸国稲田草庵(現在の茨城県笠間市)を拠点として念仏のみ教えを教化されていた頃、常陸国瀧江城の城主だった豪族・安藤九郎為信は、親鸞聖人の門に入り、蓮信という法名を賜る。
蓮信は家督を嫡男に譲り、城の横に草庵を結んだ。蓮信は稲田草庵に参り、また自身の草庵にも聖人を迎え、草庵は「瀧江御堂」と呼ばれるに至った。聖人からは比叡山でご修行されていた頃に彫られたという聖徳太子木像(※)などを賜った。
その後、源氏の戦で城を焼かれ、武田氏を頼って信濃国に寺基を移転。9代約270年の時を過ごすが、川中島の合戦でまた御堂が焼かれ、本願寺第8代・蓮如上人が布教された三河の地に移動。しかし一向一揆に伴い、結果的に家康から三河を追放され、わずかなご門徒とともに遠江国内を転々とし、江戸初期にかけて非常に厳しい環境下に置かれた。遠江国横須賀藩(現在の掛川市)城下に移ったのは1623(元和9)年のこと。その年、本願寺第12代准如上人から蓮舟寺の寺号を賜った。
※聖徳太子木像などは12年に一度酉の年に開帳される。次の酉の年は2029年。
現地ルポ
蓮舟寺から東に30㎞ほどの大井川は、「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」とも詠まれた東海道の難所でした。江戸時代には橋がなく、渡るには人足を頼む必要があった上、関所も厳しかったといいます。
さて、その大井川越えの話。蓮舟寺蔵の「輦台」は、江戸時代、歴代本願寺ご門主が東海道を通行する際、輿に乗って大井川を渡るための台でした。イラストのように大きさはかなりのもので、27〜28人で担いで渡ったであろうと伝えられています。
蓮舟寺には当時、輦台保管のために本願寺が建てた土蔵があったほか、慶長8(1603)年の准如上人江戸下向から、明治3(1870)年の明如上人上京までの間、数十回にわたる大井川越えに関するお達しの書状が残っています。
旅ある記
星 連載の最終回、静岡県西部の掛川市にやってきました。
藤 このあたりは本願寺派のお寺も多くはないし、親鸞聖人に直接つながる伝承も下調べをした範囲では少なかったんですよ。
小 築地本願寺職員の小野唯奈です!このあたりは昔、戦乱が多かったと安藤卓史住職もおっしゃっていましたね。
藤 そういうこともあって伝承があったとしても途絶えたのかも知れないですね。
星 蓮舟寺は場所を転々としたからこそ、親鸞聖人手彫りの聖徳太子像が伝わっているわけで。
藤 初代の蓮信さんが親鸞聖人の門弟となり、場所は移動しているけれども、み教えをしっかり承け継いでいることこそがご旧跡なのかなと思いました。「跡」って「あと」って書きますけど、そうやって後々まで伝えてくれる人がいてこそのご旧跡なんじゃないですかねえ。
小 お茶おいしいですね。
星 茶畑きれいでしたね。
(藤本真教・星顕雄・小野唯奈)
2年間お読みいただきありがとうございました。またどこかで。
※本記事は『築地本願寺新報』掲載の記事を転載したものです。本誌やバックナンバーをご覧になりたい方はこちらからどうぞ。