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「自分がどう見えるか」を考えない人は、損をする?

『築地本願寺新報』で連載中のエッセイストの酒井順子さんの「あっち、こっち、どっち?」。毎号、酒井さんが二つの異なる言葉を取り上げて紹介していきます。今回のテーマは「涼しい」と「涼しげ」です(本記事は2021年8月に築地本願寺新報に掲載されたものを再掲載しています)。

  暑いのはつらいけれど、着る物を考えるのは楽な夏。冬のように、寒くないようにしつつ着ぶくれせず、かつ少しはおしゃれに見えるように……といった複雑さはなく、上と下が合ってさえいれば何となくOK。着替えも素早く完了します。
 
 しかし若い頃と今とでは、夏の服装に関する考え方が、少し変わってきました。若い頃は、暑いのでとにかく肌を露出して、少しでも涼しく感じられる服装をしたものですが、大人になると「涼しい服」というよりは「涼しげな服」を着るようになったのです。
 
 「涼しい」と「涼しげ」は、似て非なる言葉です。涼しい服というのは、たとえば短パンであったりタンクトップであったりと、肢体を出して自分が涼しく感じられる服のこと。対して涼しげな服というのは、素材や柄が軽やかで、他人から見ていかにも涼しそう、というものなのでした。
 
 涼しげな服は、必ずしも着ている本人が涼しいわけではありません。たとえば浴衣姿の人はとても涼しげですが、着ている本人は暑さに耐えています。露出しているのは、顔と手足だけ。帯でしっかり締めているので、胴体は汗だくに。浴衣を着る人は、暑い思いをしつつ、見ている人に「夏らしい」「涼しげであることよ」という感覚を届けているのです。

 対して、短パンにタンクトップ的な服装の人は、本人は涼しくかつ開放的な気分にもなって楽しいのですが、周囲からすると、露出された肌の汗っぽさや生々しさが感じられて、むしろ暑苦しく見えたりするものです。「涼しい」ことと「涼しげ」であることは、同じではないのです。

 そんなわけで私も大人になるにつれ、「露出は若者に任せて、自分は『涼しさ』よりも『涼しげ』を重視しよう」という気分が募ってきました。もちろん、いくつになっても着たい服を着ればいいとはいうものの、膝やら肩やらを露出しなくても、涼しげな服を着ることによって気分が涼しくなる、ということはありましょう。

 「涼しい」と「涼しげ」が別物であるのと同じように、「清潔」と「清潔感」もまた、別物です。私がそのことを痛感したのは、とある温泉においてでした。洗い場で隣にいた女性が、非常に念入りにシャンプーをし、身体も擦り切れんばかりに洗っていたので、かなり適当なタイプの私としては、「何と清潔な人なのだろう」と思っていたのです。

 が、いざ流す時になると、彼女は周囲に水を撒き散らし、洗面器なども乱れたままに放置。脱衣所に行ってその人が着替えた服はダラーンとしており、髪はボサボサの茶髪で、今ひとつ清潔感がありません。

 そこで私は、「清潔と清潔感は、違うものなのだなぁ」と知ったのです。その人はとても清潔だけれど、清潔感を無視しているために、残念ながら清潔には見えなかった。自分では何かを追求していても、「どう見えるか」を全く考えずに損をすることは、他にもありそうな気がします。

 夏はなるべくならば、自分も涼しく感じられると同時に、他人から見ても涼しげな服を。かつ、清潔であると同時に、清潔感も漂う服装でいたいものよ、と思う私。が、日本の猛暑は、なかなかそのような両立を許しません。いつか涼しげに浴衣を着こなしてみたいと思いつつ、適当なTシャツばかり着ている毎日なのでした。
 

酒井順子(さかい・じゅんこ)
エッセイスト。1966年東京生まれ。大学卒業後、広告会社勤務を経てエッセイ執筆に専念。2003年に刊行した『負け犬の遠吠え』がべストセラーとなり、講談社エッセイ賞、婦人公論文芸賞を受賞。近著に『処女の道程』(新潮文庫)など。

※本記事は『築地本願寺新報』掲載の記事を転載したものです。本誌やバックナンバーをご覧になりたい方はこちらからどうぞ。

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