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神の義 ①


――
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
――


『ソドムとゴモラ』という文章において、永遠に生きるイエス・キリストの霊によって与えられた信仰の目をもって、しっかりと見つめた真実として書き綴ったことであるが、

かつて主なる神の言葉に聞き従って、ハランの地から旅立ったアブラハムなる人物とは、ほんとうに人の心の分からない、痛みも分からない、人の心の痛みに同情することも想像することもできなかった、人間的魅力のはなはだ薄っぺらな、老いさらばえた、至愚の小男にすぎなかった。

それゆえに、

こんなところにこんなことをばこうしていちいち書くことさえ汚らわしくてならないのであるが、そんな蟻の巣のようなケツ穴をしたアブラハムのごとき小者中の小者の、血肉的系図的遺伝的人種的民族的な子孫であることを誇ってみせているような、この現代における「至愚の小男」たちこそが、

イスラエルごっこでも、ユダヤ人ごっこでも、聖書ごっこでも、シャロームごっこでも、アーメンごっこでも、ハレルヤごっこでも、教会ごっこでも――なんだっていいが、そんなフザケにフザケた「ごっこ」に明け暮れて、あげくのはてにそんなごっこをば「大義」として盲信しながら今日もまた、性懲りもなく地上のあちこちで紛争戦争の類を引き起こしては、無辜の民の血を流し続けているのである。


が、『神の義』というふうに題したこの文章であるが、タイトルそれ自体が指し示すとおりに、「神の義」とはいったいなんのことであるのかについて書きつくろうと思い立ったので、そのように銘打ったまでである。

それは今日ただいまにおいて進行中の、どこぞの罪深き地域における「大義」の下にくり返される悲劇惨劇について、胸を焼かれ、はらわたを痛めるような思いを抱いたためであり、

それゆえに、例によって例のごとく、わたしの神イエス・キリストの父なる神から書けと言われたまま、筆を執り上げるしか方(ほう)がなかったからである。

であるからして、書けと言われたまま、まずもってはっきりと書いておかねばならぬことのあるとしたならば、

「神の義」とは、今日ただいまにおいて進行中の、どこぞの罪深き地域においてくり返されるジェノサイド行為の正当性を訴えるために用いられているような、いかなる「大義」のことでもないというこのひとつ事である。

もう一度、いや何度でも言えと言われたまま、はっきりとはっきりと言っておく、

神の義、それはいかなる大義なんかのことではない。

むしろ、小義のことである。

神の義、それはいつの時代においても、「大きな義」ではなく、「小さな義」についてこそ語られ続けて来たのである。


それでは、小さな義とは、いったいなんのことであろうか。

冒頭すでに述べたように、それはたとえばアブラハムのような至愚の小男においては、ほとんどその生涯を通して知り得なかったことである。

それゆえに、イエス・キリストの生きた霊によってはっきりと言っておく、すなわち、人の痛みをおもんばかったり、人の心の痛みに同情したりすること――これが、小さな義である。

もしも嘘だと思うのならば、かつて同じように嘘だと思ってイエスを試そうとした律法学者らに対して、どうしてイエスが「善きサマリア人」のたとえ話をもって答えたのか、その時のイエスの心情をば想像しながら考えてみれば、私の言っていることも、これから言わんとしていることも、本当に嘘かどうかが分かるであろう。

また、

「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。
悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて
虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。
更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え
さまよう貧しい人を家に招き入れ
裸の人に会えば衣を着せかけ
同胞に助けを惜しまないこと」

このような預言書における主なる神の言葉についても、それが私の言わんとしている「小さな義」のことであるのか、あるいは隣人同士で殺し合いを続ける戦争行為を正当化するため「大きな義」の方であるのか、いま一度、その賢明なる頭と健全なる心とをもって、考えなおしてみたらいかがであろうか。

その上でなおさらのこと、

小さな義とは、別の言葉に置きかえるならば「憐れみ」のことであると、

人の痛みをおもんばかったり、人の心の痛みに同情したりする「憐れみ」を己の心に抱くこと、そんな「憐れみ」に突き動かされたふるまいに打って出ることと、

それこそが、すなわち神の義であるというふうに思わないのであれば、そんな人間に向かっては、私としても何一つとして語るべき言葉などありはしない。


それゆえに、

私はこれまでにももうなんどとなく、父なる神が死者の中からキリストを復活させた力が「憐れみ」であり、

よって復活したイエス・キリストの名前が「憐れみ、憐れみ、憐れみ」であり、

だからこそ、イエスがキリストでありキリストがイエスであることを知らしめる聖霊とは、「憐れみの霊」であることを語って来た。

荒野の旅のその果てにモーセが登ったネボ山と、私が私の人生の荒野で登攀した「イエス・キリストの山」とが、同じ「文句なしの神の憐れみの山」であることも、古今東西における私の知り得る限りの偉人賢人の内のだれよりも感動的な文章をもって書き表した。

これら事柄については、これからもずっとずっとずっと喉を嗄らしながら語り続けることであろうし、けっしてけっしてけっしてやめることがないであろう。

だから、もしも嘘だと思うのならば、この先の文章などいっさい読まなければいいというものだし、

また、神の義とは、人が心に抱く憐れみであり、その憐れみに突き動かされた行いのことである――このような「戯言」なんかよりも、今日ただいまにおいて、中東地方で声高に叫ばれているそれらしい「大義」の方がより重大なる意義を持つものだと思うのであれば、こんな文章のことなど鼻で笑い、頭をふり、背を向けて立ち去ってしまえばいい。

この私もまた、そのような後ろ姿に対しては、もはや「永遠に足の塵を払い落とした」のだから。


いずれにしても、

神の義が、とどのつまり「憐れみ」のことであると、このようにはっきりと語った人間も、そのような類の文章も、私は私以外の者と、私以外の者による作文とを知らない。(知らないと言っているだけで、無いとは言っていないのだから、私よりも憐れみ深い読者諸氏におかれましては、ぜひとも情報の共有を乞いたいものであります。)

それゆえに、『ソドムとゴモラ』を書き終えて以降、折にふれてはアブラハムやロトやといった、その心に「憐れみ」を知らない、蟻のケツ穴をした小男どものふるまいを批判して来た私であるが、今回に限っては、そんな彼らをいまひとたびのこと「憐れに思った」ので、なかんずく、晩年のアブラハムの信仰と行いについて、弁護し、賞賛するような文章のひとつでも書いてやろうかというふうに、思い立ったまでである。

そこで、

ここでいま一度、アブラハムの憐れみのない行動について、復習しておきたい。

すなわち、かつてソドムとゴモラの滅亡の煙を目にした「信仰の父」は、その心に憐れみではなく、恐れをこそ抱いて、ネゲブ地方へと逃げ去った。

そして、その地においても、かつてエジプトの地で犯したものとまったく同じ罪を犯し、神への不信仰をさらけ出しては、その地方の人々に多大な迷惑をかけて、人々を悩ませ、苦しませた。

まるでまるで、今日ただいまにおいて進行中の、罪深き地域における戦争を予言するかのような、愚かしさを極めたふるまいにほかならなかった。

がしかし、

この私のように、恐れではなく、憐れみによって心を焼かれた人間は、そんなユダヤ民族の父祖たる小男の、薄情極まりない逃亡をなぞらえることなどけっしてなかった。

むしろロトを「憐れんで」破滅の炎から救い出した主なる神と、同じ「憐れみ」に突き動かされるようにして、ソドムとゴモラの焼け跡を、自分の身をもって訪れた。

そのようにして、神の裁きによって一本の草木も残らぬようにと滅ぼし尽くされた、瓦礫の底をかき分けた。

そしてその時、私の心は、永遠の憐れみの神イエス・キリストの心に邂逅し、顔と顔を合わせるようにして出会い、交わったのであった。

――このような話は、すべて『ソドムとゴモラ』の中に綴った事柄であるが、なにゆえにまたぞろくり返しているのかと言えば、

イエス・キリストにしても、父なる神にしても、そんな私の瓦礫をかき分ける信仰と行いについて、大変に喜んだからである。

だからもう一度、イエス・キリストからも父なる神からも、言えと言われたまま言っておく、

ソドムとゴモラを訪れて血涙を流した私の信仰と行いとは、アブラハムのイサクを捧げた信仰と行いにもまして、イエス・キリストからも、父なる神からも、ずっとずっと心から喜ばれ、愛された、

なぜとならば、

毀壊された故郷の地を踏みしめた私の心の形とは、裁かれて滅ぼされた人の心の痛みを自分の心の痛みとして「憐れんだ」者にのみ見いだされる、神が探し求める心の形であったからである。

それゆえに、これははなはだ比ゆ的な表現として言うのであるが、どこぞの民族の始祖なる呼び名をもって知られる大先生様の、恐れの霊に憑りつかれてただ逃げていったような心の形よりも、憐れみの霊に焼かれるのようにして神の懲らしめを受けた私の心の形の方こそが、いつもいつでもイエスが霊的にまぐわいたいと望んでいる、不可視の膣の形であるのである。

ついでに言っておくならば、霊的にまぐわうとか、不可視の膣とかいう私の言葉については、主なる神とそのような「霊的交渉」を持ったことのある者でなければ、私のいま何を言っているのかも分からないであろうし、これから語ろうとしている「イサクを捧げたアブラハムの心の形」についても、けっして理解できるものではない。

百歩譲って想像することのできたとしても、その身をもって悟ることがない。

その身をもって悟ることがないとは、現実的にも実際的にも地上的にも、「イサクを捧げる」という信仰と行いを、やってみせることができないという意味である。

そして、

現実的にも実際的にも地上的にも「イサクを捧げる」という信仰を、行いとして履行することのできない者とは、イエス・キリストのものではなく、父なる神からも知られていない手合いのことであり、

そのような者どもこそが、たとえば今日ただいま進行中の油(金)と核兵器の覇権を巡る殺戮戦争のような、世紀の「偽大義」によってたばかられては、無辜の人々をソドムとゴモラよりもなおいっそう凄惨な破滅の運命の方へ方へと誘いこんでいくしか手立てがなくなった、破滅の器たちにほかならないのである。



つづく・・・




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