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ふたりぼっちの世界 ②

これまで述べて来たような事情は、聖書を読む時にも、まったく同じ現象が起こる。

全66巻から成る聖書の中にしたためられた、さまざまな韻文にせよ散文にせよ、それらを文字通りに読みこむことは、誰にでもできる。

文字通りに聖書を読んで、さらには、原語であるところのヘブライ語やギリシャ語にまでたどり着いて、解釈や解説やを増し加えていくことも、やろうと思えば、誰にだって簡単にできる。(その良し悪しは別にして、このインターネットの時代においては、そんなサービスがあまねく提供されているのだから。)

ただ、もう何度もなんども言ってきたことではあるが、「真の問題は、そこから先」にある。あるいは、「それ以外」の場所にある。

聖書のある文章を文字通りに読んで、原語や他言語の翻訳とも照らし合わせ、――また、聖書の中の他の文脈の、他の言葉たちと組み合わせ、連想し、考察を重ね、――さらなるは、その文章が書かれた当時の時代背景や史実などをも詳しく調べあげて、

というふうに、一生懸命に努力することくらい、誰にだってできる。やりたければ、鼻血が出るまでやったらいい。

しかししかし、はっきりとはっきりと言っておくが、

そんな努力は、あくまでもあくまでも「やりたければやったらいい」、「どうぞご勝手に」というレベルの話にすぎずして、けっしてけっして「やるべき」仕事でもなければ、「やらなければならない」務めでもない。

はっきりとはっきりとはっきりと断言しておくが、

そんな程度の、いわばアカデミックなお勉強なんぞを、何千年何万年とやり続けてみたところで、「真理」にも「奥義」にも、たどり着くことは絶対にできはしない。

これは私独特の、独善の、独断の考えなんかではけっしてなく、ほかでもない、「聖書」の中にもそう書いてあることだから。

いわく、

―― ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うと、 イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。 この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。 自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。…」――

―― わたし(イエス・キリスト)は道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 ――

―― しかし、弁護者、すなわち、父がわたし(イエス・キリスト)の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。 ――

―― 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある ――

―― 神の霊以外に神のことを知る者はいない。 ――

―― 聖書はわたし(イエス・キリスト)について証しをするものだ。 ――

―― 父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたし(イエス・キリスト)について証しをなさるはずである ――

だからこそ、

なによりもなによりも「信仰」という神から与えられる「聖霊」をもってこそ、聖書は読まなければ、聖書という名の本も、自分の人生という聖書も、どちらも「宝の持ち腐れ」となってしまうのである。



なぜか――?

という質問をあえてする人がもしもいるなら、私もあえて荒っぽくこう答えよう。

だって、そんな程度の「努力」なんぞで、本物の悟りが開けるならば、お釈迦様はいらねぇよって話じゃねぇか……!

聖書の研究をマジメにガンバリました、なんてレベルの「汗」でもって、この生きるに値しない人間の世界の「救い」にたどり着けるというならば、なにゆえに、イエス・キリストは十字架にかかって殺されなければならなかったんだい……??

いつもいつも言っていることだが、こんな当たり前なことくらい、「からし種ひと粒ほどの信仰」をもって考えてみりゃあ、分かる話じゃねぇのか……!



だから、『命をかけた祈り』という文章の中でも、私は言ったのである。

四十年に及んだ荒野の旅を終えたモーセが、ピスガの山頂にあって、主なる神に祈り求めたものとは、荒野の旅路で倒れてしまったすべての同胞たちのための「神の憐れみ」であったと。

『エゼキエルこそ希望の民である』という文章でも、血も涙もないような神の裁きの預言を体現したエゼキエルという生身の人間の、その隣に立ちながら、「自分の目で見、自分の耳で聞き、すべてのことを心に留めなさい」と言って、神の栄光の神殿を一緒に見つめてくれたのは、イエスその人であると。

もしも、そうではない、それは違う、なぜならそんなことはひと言も聖書に書かれていないからだ、という意見の方こそが真実であるというのならば、どうか神が幾重にも私を罰してくださいますように。…


しかし私は知っている。

冒頭の『黒い雨』という物語の中で、私は私の目をもって「五彩の虹」をば仰ぎ見たように、私はピスガの山頂にあって、モーセと共に旅で死んでしまったすべての民のためのとりなしの祈りをした。エゼキエルと一緒に、私もまたイエスのかたわらに佇んで、神の栄光の神殿を心の目で見つめた。

これが、神の霊である「信仰」によって、私が「聖書の中を実際に生きた実体験」だからである。

純文学を「想像力」をもって読まなければ読んだことにはならないように、聖書にいたっては、よりいっそう、このように「信仰」をもって読まなければ、その中の登場人物たちが仰ぎ見た「神の憐れみと赦しの顔」をば、自分の目をもって見つめることもできないのである。

神は裁きと復讐の神であると同時に、憐れみと赦しの神でもある。

原初に罪を犯してしまったアダム以後、すべての人間の魂が焦がれ、焦がれている希望とは、神の裁きよりも強い、「神の憐れみの顔とあいまみえること」なのである。


それゆえに、

井伏鱒二の書いた小説の中で、五彩の虹を見たからと言って、私はそれで満足するわけではない。

それで満足できるクリエーターがいるとしたら、そんなクリエーターはしょせん二流であり、その作品はひっきょう亜流であり、その文章はおおよそ他人のふんどしを履いた評論どまりである。

同様に、

しょせん本にすぎない聖書を信仰をもって読みこみ、モーセやエゼキエルと一緒に神の憐れみの顔を仰ぎ見たからといって、それで終わりという話でもない。

それで満足する人がいるとしたなら、はっきり言っておくが、それは「解説」である。原語の解説やアカデミックな解説よりは一万倍マシだろうが、良く言って、せいぜい「信仰」をもって聖書を読みました、というばかりであり、とても良く言って、「他人が出会った神」の、他人と一緒に見た「永遠の風景」を、滔々と述べ立てているだけの話なのである。

それゆえに、

「自分の目で見、自分の耳で聞き、すべてのことを自分の心に留めよ」という言葉の通りに、

もしも私が、この人生をもって、「わたしの神」に出会い続け、

「わたしにしか見せないような、神の憐れみの顔」を、この人生をもって、体験し続けなければ、

そのような、イエスとわたしの「ふたりぼっちの世界」にあって見つめる、イエスとわたしの「永遠の風景」をば、この人生において心に留め続けなければ、

この人生をいくら生きていても、生きていないのと同じなのである。


余談にはなるが、

私がまだ子供だったころ、初めて門をくぐった教会は、世界的な大組織に属していた。

その末端の礼拝堂にて出会った一人の老牧師が、ある日私にこう言った。

「私ら牧師にも「ノルマ」がある。組織だから当然だ。そのノルマとは、洗礼を授けた人の数のことだ。新しい信者に、どれだけ新しい洗礼を授けえたのか――まあ、話はもう少しだけ複雑だが、その数が多ければ多いほど、”名誉牧師”になれる可能性も高くなる」

君には、私たちの系列の神学校で学びたいという気持ちあるかい――? 

と、最後にその老牧師は、私にむかって付け加えた。

ああ、

私はその組織の大学においてその教派の神学をば、若き私の学ぶことのなかったことを、いつもいつでも「わたしの神」に感謝している。

あの時、右も左も分からなかった幼き私を、バカな、ムチな、モーマイな、トンチンカンな、マトハズレなキリスト教会の触手から守ってくれたのは、間違いも疑いもなく、わたしの神の「憐れみ」だった。

つい昨日まで、私は、私を勧誘した老牧師のことを思い出すたびに、ヘドの出るような思いがするものだった。

がしかし――

つい先日のことだったが、どうでも良くなった。(たぶんこの文章を書いてしまったら、もはや思い出すこともないに違いない。)

あれから、おそらくは立派な、尊敬すべき名誉牧師となられたのであろう老牧師の、さぞかしその胸に誇りにしているであろう”名誉”が、神からではなく人間からのものであったとしても――そんな単純な事実にすら今日に至るまで気づくことのなきままに生きているか、あるいはそのまま死んでしまったか――そんないっさいが、私にとってなんであろうか。

「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。」

という聖書の言葉どおりで、

一人のあまりに愚かすぎる名誉牧師であれなんであれ、その者の人生をもってまっとうした「クリスチャンごっこ」に、私は絶対にかかずりあいたくもなく、そんなヒマな体でもない――

けれども、

「ユダヤ人が躓いて、かえって異邦人に救いがもたらされた」という聖書の言葉が真実であるように、

クリスチャンが躓いて、かえってノンクリスチャンに救いがもたらされたのであれば、

「すべての人を憐れむための、神の富と知識と知恵のなんと深いことか」

という聖書の言葉もまた、実現したのである。

だから、いつもいつでもいつまでも、意識すべきは「神ただひとり」であって、「教会」とか「クリスチャン」とかいった人間的な、あまりに人間的なシロモノなんか、アルファからオメガまで「どうだっていい世界」なのである。

それゆえに、

「わたしは人からの誉(ほまれ)は受けない」と言って、その通りに十字架で死に、

代わりに、

父なる神から「すべての名に勝る名」を与えられた、復活したイエスのように、

私もまた、そのようなイエスと手と手を取り合って、一緒に見つめる永遠の風景にしか、興味がない。


わたしの「魂のかたわれ」のようなイエスと共に、

イエスとわたしのふたりぼっちの世界にあって、

憐れみ深い父なる神の顔を見つめること――

それが、自分のなすべき仕事であると知っている私は、

朽ちる食べ物のために「教会」なんかでさも当然のように「十一献金」を「投げ銭」してもらうような仕事ではなく、

「いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働け」

という言葉のとおりに、今日もまた、自分のなすべき仕事だけに集中するばかりである。



(『ふたりぼっちの世界  ③(補足)』https://note.com/t_j304/n/n602e9418ba35 )


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