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ユダの神の人とベテルの老預言者 ③


――
わたしの民よ、彼女から離れ去れ。
その罪に加わったり、
その災いに巻き込まれたりしないようにせよ。
彼女の罪は積み重なって天にまで届き、
神はその不義を覚えておられるからである。
――



それゆえに、

わたしの神イエス・キリストの父なる神の憐れみによって、ここにはっきりと言うものである、

すべて不可視の神殿を心の内に再建し、イエス・キリストの生きる”霊”を宿した者たちよ、

彼らから離れ去れ。

上の「彼女(バビロン)から離れ去れ」という黙示録の言葉とは、この時代を生きる私たちのような「神の人」のためにこそ、今なお語られ続けられている神の言葉である。

バビロンとは、たとえばかつて暗君ヤロブアムが偶像に向かって香をたいていた祭壇のあった場所のことであり、「裂けて、その上の脂肪の灰は散る」という呪いの預言がなされた祭壇そのもののことである――すなわち、現代においては、この世のユダヤ教キリスト教の老預言者たちが日がな一日、自分たちの神々のために人身売買の取引を行っている死の都のことであり、また当代のユダヤ教キリスト教そのもののことなのである。

それゆえに、

かつて名もなき神の人に対しても、そんなところにあっては「パンも水ももらうな、離れ去れ」という戒めが与えられたように、

現代における「そんなところ」にあってはなおいっそうのこと、たとえ王宮の半分を与えられても、けっして、パンを食べず、水も飲んではならず、 主の言葉に従って、行くとき通った道に戻ってもいけない、

ただひたすらに、もう二度と元へ戻れないように、

離れ去れ――!


もしも、

もしもあなたにあって、彼らに対して私のしたように足の塵を払い落とすことなく、明日に備えて自らを聖別することもないのならば、

そのようにして、彼らから徹底的に離れ去ることなく、彼らの甘言に惑わされて元来た道を引き返し、彼らの食卓について水やパンの施しを受けたりするのならば、

その時、あなたの前で彼らの上に神の霊が臨み、あなたは必ず、獅子に引き裂かれ、殺される。

ベテルの老預言者は、そこら中にいる――彼らはただの一人の例外もなく天上の悪の霊の使いであり、あなたや私のような神の人を殺すために、昼夜を問わず目を光らせて、ほえたける獅子のように喰い尽くすべきものを求めて歩き回っている。

彼らは、あなたや私のような「憐れみの器」を見つけ出しては、それを「怒りの器」であるところの自分たちの墓の底へ、葬り去ろうとする。

そのようにしてでも、「なんと不幸なことよ、わが兄弟」と叫び上げて、あたかも自分が「憐れみの器」であるがごとくに見せかけるためにこそ――

彼らの行いが「白く塗った墓」であるとは、まさにまさしくこういう行為について言っているのである。


それゆえに、

かつてベテルに住んでいた老預言者が、ユダから来た名もなき神の人を殺したのには、二重の意図があった。

ひとつは、今言ったように、自分とともに神の怒りの中へ、無垢で正しい人を引き入れるためであり、

もうひとつは、この世にあって、自分が神の怒りをまぬがれようとするためであった。

ベテルの老預言者は、ヤロブアムの祭壇に対して呪いの預言をしてみせた神の人を殺し、葬ったことによって、あるいはヤロブアムからもたらされたかもしれない災いから、自分の身を守ろうともくろんだのであった。

つまりは、ベテルからの帰途にあった神の人を呼び止めて、自宅へ招いたのは、彼の上に留まっていた主の霊から言葉を聞いて、自分もその霊にあやかろうと図ったためであり、

他方、彼を欺いて、神の言葉に背かせて殺すことによっては、ヤロブアムに対して「わたしは王の預言者として不届き者の死を見届けました」というふうに、王へ訴えることができたわけである。

かてて加えて、王の王、主の主たる神自身に向かっては、わたしは神の言葉を神の人に告げ知らせ、さらには彼をねんごろに弔い、葬ったのだから、わたしこそが本当の預言者であると、言い張ることもできたというわけである。

「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」

とは、まさにベテルの老預言者のしたような行いについて、言っているのである。


さりながら、

いかにこの世の偽預言者たちが、神の人を丁重に葬って、自分が殺したその人のために墓を建て、その墓の中に自身も葬ってくれと遺言を残し、そのように神の人に連なって墓に入ることによって、自らもまたその人と同等の者とみなされるかもしれないというささやかな望みを胸に抱きながら死んだとしても、

「口先では神に近いが、腹ではほど遠い」

という言葉のとおり、そんな浅はかな企みが、企まれた通りに成ることなど、けっしてない。

わたしの神イエス・キリストの知恵と信仰とによって、はっきりとはっきりと言っておくが、

神の人を欺いたその罪も陰謀も、ただのひとつでさえ見逃されたり、目こぼしを受けたりすることもなく、すべてすべて、神によって見抜かれており、数えられている。

その動かぬ証拠のひとつとしても、かつていかなる神学校にも宣教学校にも通った事実もなく、聖書を体系的に学んだこともなければ、ありうる限りの宗派教義神学の類に属することも支持することもなく、ユダヤ教もキリスト教も「バビロン」だと言い切っていささかもはばからない私のような者にあって、

かつてのベテルの老預言者の陰謀は、ことごとく暴かれてしまったのだから。


それゆえに、

かつてユダから来た無名の神の人を殺したベテルの老預言者とは、神の言葉の通りにできずに獅子に喰われた神の人のように、神の永遠の怒りを受けて、徹底的に滅ぼし尽くされるのである。

はっきりと言っておくが、

ベテルの偽預言者に欺かれた神の人が、欺かれたことによって、文句なしの神の裁きを受けたように、あるいは欺かれたことによって、文句なしの神の憐れみを受けることができるかもしれないという議論になど、私には興味はない。

もしもここで、私がこの名もなき神の人のために憐れみを感じ、その人のためにとりなしの祈りをしてみたからといって、それがなんであろう。

「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」という事ができるのは、ただひとり、イエス・キリストの父なる神だけである。

それゆえに、

私がイエス・キリストの霊によって、はっきりと確言できるところとは、欺かれて獅子に殺された神の人のことではなく、神の人を欺いたベテルの老預言者とは歴然たる偽預言者であり、彼は神の人を欺いて、ついには殺してしまったことにより、永遠に神の怒りを受ける「怒りの器」となったという点の方である。

彼にはもはやいかなる弁解の余地はなく、ただ徹底的に滅ぼし尽くされるばかりである。

これとまったく同様に、

『神殿なんかいらない』という文章にも書いたことだが、かつて私が右も左も分からなかった子供の頃に、私に聖書の個人授業を施した当時齢八十の老牧師とは、とりもなおさず、ベテルの老預言者そのものであり、完全無欠の偽預言者であった。

彼は意識認識悪意の有無を問わずして、無辜の少年に聖書を教えているつもりで、自分の所属する宗派を刷り込み、イエス・キリストを宣べ伝えるようにしながら、自らの支持する教義神学を私に教え込もうとした。

すなわち、意識認識悪意の有無を問わずして、教会に住んでいた老牧師は、同じ教会を訪れた少年を、「欺こうとした」のであった。

それがゆえに、あの老いさらばえた偽預言者においては、けっしてその「罪」をまぬがれることができない――彼が立派な名誉牧師となったとか、多くの人に教会のバプテスマを施したとか、慈悲深い奉仕活動をした事実があるとか、いっさい関係ない。

彼は生粋の、生来の、生まれながらの偽預言者として、さながらユダから上がって来た神の人のような無垢の少年を欺いて、彼の家で水とパンを施した。

当時右も左も分からなかった無知の少年は、「金、健康、時間、家族、友人」といった現し世の繁栄よりも、真実の感動を探し求めて神を求めたはずだったのに、自称「わたしも神の預言者です」という者によって、ユダヤ教キリスト教の宗派教義神学という「パンと水」を喰わされた。

すなわち、「金、健康、時間、家族、友人」という可視の繁栄から離れ去ろうとして来たのに、もののみごとに騙され、たぶらかされて、そうとは知らず、そうとも疑わず、またそうだなどとは夢にも思うことこなく、「元来た道を引き返させられた」のであった。

それゆえに、私は私の受ける分を受けて来た。

さながら獅子にでも喰われるかのように、私はすべてを失った――愛する人も、無二の友も、自分の右の手も…。このような話は、『ソドムとゴモラ』なんかに綴ったとおりである。

さりながら、

私は生粋の、生来の、生まれながらの「憐れみの器」であったために、またそうとは知らずにイエス・キリストを迫害していたサウロが、知らずにやっていたことのために神の憐れみを受けてパウロとなったように、私もまたイエス・キリストの憐れみを受けた。

イエス・キリストの憐れみを受けて、老預言者によって欺かれた名もなき一人の少年は、キリスト・イエスの父なる神の憐れみの霊によって目覚めた、名もなき小説家となった――そのような経緯は、『わたしは主である』でも『憐れみの器』でも、もうなんどとなく書き表して来た。


であるからして、

そんな私がたった今も、このような文章を書いていること――これこそが神の憐れみのなせる業にほかならないのである。

もしもキリストの憐れみでないとしたらば、私は今もなおユダヤ教キリスト教のいずれかのくもの糸に絡み取られたまま、奴隷か捕囚の民かのようにその日暮らしを続けていたか、あるいはもうとっくの昔に、不幸や病や事故やによって命を失っていたはずである――たとえば、私の愛する人や、無二の友のように。

それゆえに、

今一度、私はここにはっきりとはっきりと書き記しておく。

書き記しておくのは、イエス・キリストと父なる神の永遠にしてもっと美しい名前であるところの、「憐れみ」によるものである。

すなわち、

かつてユダから来た神の人を欺き、殺してしまったベテルの老預言者とは、生粋の偽預言者であり、それ以外の何者でもありはしない――

彼は原初の昔、エデンの園でアダムとエバを欺いた、サタンの使いであり、今日も神の許しの中で、吠えたける獅子のごとく歩き回っている――

そして、ベテルに住んでいた老預言者も、エデンにいた蛇も、この時代のユダヤ教でありキリスト教の姿そのものである――

彼らは、ただの一人の例外もなく「蛇」であり「蝮の子」であるがゆえに、「人々の前で天の国を閉ざし、自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」

そのようにしてこの世の終わりまで、企みと欺きと謀りとに明け暮れる――。


彼らは皆、かつてユダから来た神の人に水とパンを与えて殺したように、いつの時代においても、蝮の卵をかえし、くもの糸を織って、殺めようとする――

すなわち、

彼らは蝮の卵をかえし、くもの糸を織る。
その卵を食べる者は死に
卵をつぶせば、毒蛇が飛び出す。
くもの糸は着物にならず
その織物で身を覆うことはできない。
彼らの織物は災いの織物
その手には不法の業がある。
彼らの足は悪に走り
罪のない者の血を流そうと急ぐ。
彼らの計画は災いの計画。
破壊と崩壊がその道にある。
彼らは平和の道を知らず
その歩む道には裁きがない。
彼らは自分の道を曲げ
その道を歩む者はだれも平和を知らない。

これこそが、彼らの生業であり、ふるまいであり、罪なる生き様なのである――

それゆえに、

すべての「神の人」らよ、彼らから離れ去れ…!

すべての「憐れみの器」らよ、当代のユダヤ教キリスト教にあっては、たとえ国の半分を譲られても一緒に歩いて行ってはならず、パンも食べず、水も飲んではならない――離れ去れ…!

行くとき通った道を戻ってはならず、もはや二度とそこへ行く道を覚えることのないように――ただひたすらに、離れ去れ…!


私は終生、書くことをやめないように、

これからも、黙することなく、喉を嗄らして叫び続けることをやめない。

角笛のように声を上げて、

かつては若きソロモンのように美しかった黎明期の教会も、

今ではすっかり老いさらばえて、罪と背きを重ねるだけの堕落のバビロンとなったことを、

その背きとその罪を告げ知らせることを、やめることはない。

がしかし、

私にできることとは、ただ叫ぶことばかりである。

ただ、このような場所に、書き連ねることばかりである。

ダイヤモンドのような額をもって、書けと言われ続けるまでは、何があっても書き続けるばかりである。

それゆえに、

この世のユダヤ教キリスト教に巣食う悪党たちが、イエス・キリストにも父なる神にも聞こうとしないように、

彼らが私の書いたものを読んでも理解できず、聞いても悟らない者であることも、よくよく知っている。

それゆえに、それゆえに、

彼らが聞こうが聞くまいが、私は委ねられ、託された神の言葉を語り続けるばかりである。

それを聞いてまだ見ぬあなたの心が開かれても、それは神の計らいによるものであり、

それを聞いて、たとえあなたが背を向け、耳をふさぎ、鼻を鳴らして嘲笑ったとしても――

そのようにして、

ユダから来た神の人がベテルの老預言者によって殺された事件があった後もなお、偶像の祭壇で香が焚かれつづけ、それがために、ヤロブアムの家の罪が残り、その家は地の面から滅ぼし去られることとなったとしても、

それもまた、神の計らいによるのである。



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