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神の国と神の義を求めよ

「何よりもまず、神の国と神の義を求めよ。」

というイエスの言葉を、はじめて耳にした時から、ずっと心に思い続けてきた。

最近になってやっと、「この身をもって知った」ので、ほんのすこしだけ、書き記しておきたい。

これはもちろん、「知った」と言っても、「分かりかけた」という程度の話に過ぎずして、わたしがこれまでの、わたしのちっぽけな人生で味わった、ひとつの解釈である。

ゆえに、ぜんぜん別な解釈があったとしても、その人が「その人の身をもって知った」ものであるならば、それもまた成り立つ解釈に違いなく、そういうものであれば、ぜひとも聞いてみたい。(しかし、聖書を「文字」として読んで、それらしく解説しただけの、「マコトニアリガタキお説教」なんかには、蜂の頭ほどの興味もない。)


『インマヌエルの神』という文章の中でも、すでに書いたことだが、

―― この世界は、神が造った ――

―― 神が造ったものはすべて、極めて良いものである ―― 

という「真理」を、わたしは信じるに至った。

それはまったく、論理的でもなく、合理的でもなく、現実的でもなく、具体的でもなかった。

なぜならば、日々、嫌でも向き合わされている「現実」や、これまで否応なく経験させられてきた「事実」にこそ目を向ければ、どうしてどうして、「極めて良い」などと、信じ得ようぞ。

しかし、それでも、

―― この世界は、神が造った ――

―― 神が造ったものはすべて、極めて良いものである ―― 

ということを、そんな「現実」や「事実」以上の、「真実」であり、「真理」であると、わたしは信じたのである。

だから、いつも思うのだが、「信じる」とは、非常に、大変に、純粋に、〇〇な行為に違いない。

『復活したイエスは、「ユダヤ人」か?』という文章の中でも書いたことだが、わたしの友人もまた、「神の与えし絶望の夜」に、「子どもだけは守るんだ」という、非常な、大変な、純粋な「非現実的」選択をした。

ところがその結果、わたしの友人はいま、「子どもとふたり、幸せな日々を送る」という、「現実」を生きているのだ。

だから、これを聖書的に言えば、「友人は「子どもを守る」という神の言葉を信じた。神はそれを彼の義と認められた」というふうになろうか。

また、「信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成された」というふうにもなろうか。


これと同じように、

―― この世界は、神が造った ――

―― 神が造ったものはすべて、極めて良いものである ―― 

それが、すなわち、わたしにとっての「神の国」である。


―― この世界は、神が造った ――

―― 神が造ったものはすべて、極めて良いものである ―― 

わたしはそれを信じた。神はそれをわたしの義と認められた。それこそが、わたしの「神の義」である。


そして、

たとえばこんなふうな「文章を書く」という「行い」によって、「わたしの信仰は完成された」のである。


それゆえに、

わたしの友人が「子どもとふたりで幸せに暮らしている」ように、

―― この世界は、神が造った ――

―― 神が造ったものはすべて、極めて良いものである ―― 


という「神の国」を、いま、わたしもまた「現実として生きている」のである。

たとえば「神の国と神の義を求めよ。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」――という、「これらのもの」を「みな加えて与えられ」ながら。

それはちょうど、仰ぎ見る今日の秋晴れの空のような、快晴の、完全無欠の、ひとつの傷もない、佳美しき日々である。

そして、それはまた、

わたしが顔と顔を合わせて、あいまみえた、わたしの神、インマヌエルの神、イエス・キリストの顔なのである。



追記:

間違ってはいないかもしれないが、しょせんこのような感動の薄い文章を書いていた頃の私とは、「イサクを捧げる前のアブラハム」にすぎなかったのであろう。

この文章の後で、「ソドムとゴモラの焼野原」を歩き回って、イエスと出会い、『ソドムとゴモラ』という文章をしたためた。
https://note.com/t_j304/n/n150dc7e2e3a1

それからさらに時を経て、『ソドムとゴモラ』に込めた私の思いに対するイエスからの便りのような、『神の義』を書かされた。
https://note.com/t_j304/n/n35c53dafddaf

祈りに応える神は、必ず、祈りに応えるのである。

2023.10.22

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