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日本国憲法とは実利主義である(※市民と人間 4)

へベル、へベル、いっさいはへベルである  伝道の書
 


ある格闘技の達人がその道の極意を問われてこう答えたという。

「自分を殺しに来た人間と友達になる事だ」

けだし見事な言葉であり、美しい思想に他ならない。

聖人と呼ばれた、親鸞をば彷彿とさせる。

また、『右の頬を打たれたら、左の頬を向けろ』というイエスをも連想させる。

しかし――

かつてイエスは、荒野を一人さまよい歩き、思索を重ねた。伝によると、ここで彼は四十日四十夜の断食を経た後、悪魔の誘惑を受け、それに打ち克ったという事である。それから野に下り、人里から人里へ、伝道の旅を続けた。

イエスの斬新な主張は多くの民衆の歓心を得た。と同時に、時の権力者や知識人の反感を買った。そしてイエスは、それらの者達の手によって殺されたのであったが、三日後に復活するとついには天に昇り、神の右の座に就いたという。そしていつの日かまた、ふたたびこの地上に戻って来るという。

キリスト(救い主)と呼ばれたイエスを殺した者は、誰であったか? 
彼が歓心を得た、民衆であった。反感を買った、政治家であった、警察であった、医者であった、宗教家であった、法律家であった。すなわち、国民であり、立法であり、司法であり、行政であった。

ならば、イエス・キリストとはいったい、何者であろうか? なぜイエスは、殺されてもなお三日後に復活し、昇天の末に神の右に座る事を得たのだろうか? そしてなぜ、ふたたびこの地上に帰って来るというのだろうか?… 
 

こんなに長い前置きをした上で、私の、日本国憲法についての意見を述べようと思う。

私は、日本国憲法が、いかなる達人のようだとも、聖人のようだとも、いわんやキリストのようだとも、思っていない者である。

そこに唄われた平和主義も、民主主義も、そんなものがどのような末路を辿ろうとも、短絡的で狂信的な擁護者たちのように、まったく憂いもせず、心配もしていない者である。

遠からぬ将来、日本国憲法は、必ずや変わって行くであろう。そう確信している。

そう確信しているが、やはり憂いもせず、心配してもいない。

よし憲法が変わっても、よしキリストのように殺されてしまったとしても、それが本当にキリストならば、また復活するはずである。ふたたび、帰って来るはずである。だから、憂いもせず、心配もしていないのである。

もし、キリストでないのであれば、――他のあらゆるものがそうであるように、いずれ変わるべき、「へベルなる万象」の中の一つに違いないのだから、さっさと変わってしまえ。

そもそも、キリストとは、聖書の解釈を変えた男ではなかったか。

かの山上の垂訓とは、それまでの民衆に信じられていたように、律法を説明したのではなく、それ以上の、人にはとうてい思いも及ばないような奥義を示したものではなかったか。「目には目を、歯には歯を」という言葉をもって、「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」というふうにはっきり説いた者など、他に存在しただろうか。

聖書ですら、そうやって深化していったのである。

たかが日本国憲法なぞが、いかなる聖典たりえようぞ。

変われ、変われ。

この浅ましき「市民の時代」に、達人はいない、一人もいない。聖人もいない、一人もいない。

キリストは殺された。復活し昇天し再臨するためにこそ。

変われ、変われ。

市民の手によって成ったものは、同じ市民の手によって、何もかも、ひとつ残らず変わってしまえ。

その時、山奥に居ようと、砂漠に居ようと、市井に居ようと、象牙の塔に居ようと、私は少しも恐ろしくもなければ、心配でもない。

変われ、変われ。

日本国憲法は、完きものでも、善きものでも、美しきものでもない。

他のあらゆるものがそうであるように、ひっきょう、へベルなる時代の本質に見合った、市民の実利主義の産物にすぎないのだから。

変われ、変われ、変わってしまえ。

もう一度言うが、日本国憲法は、聖書でもなければ、他のいかなる聖典でもない。キリストでもない。

臭い臭い現実の、愚かな愚かな市民の、虚ろな虚ろな時代の、浅ましき浅ましき実利主義がひり出した糞なぞを、なにゆえに、後生大事に転がし続けようとするのか。

ほかならぬ自分自身の頭と心とはらわたに問いかけて、もっとマジメに考えるべきだ。



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