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「報い」とは、「読者」が与えるものである(※文学ってなんだ 20)

新見南吉の『ごんぎつね』(1932年)は、あくまでもあくまでも個人的な意見にすぎないが、童話としてみても、物語としてみても、文学としてみても、まさに「ひとつの瑕もないような」傑作である。

読みかえす度ごとに、この作品の、作者の18歳の年に生み出されたものであるという史実にただただ驚かされて、樋口一葉と同じく、「日本文学の奇跡」にあらためて相まみえ、けっして褪せることのない、むしろ時を経るほどにいや増していく惜しみのないような「感動」を、心に恵まれるのである。

『ごんぎつね』たった一作だけでもいい、それの読者に与えうる「恵み」は、言ってしまえば「戦後文学」とか称されるすべての作品をかき集め、目睫につみ上げてみたところが、けっして越えることのできない「重にして大なる」ものにちがいない――そう確信している。

逆を言うなら、日本の「戦後文学」など、なんら感動らしきものをば提供してもくれない「駄作ぞろい」ということになり、それゆえに、そんなゴミのような駄文の読了がために労するくらいならば、『ごんぎつね』ただ一作を、何度も何度もくりかえしくりかえし読み込むことの方が、「文学のなんたるか」が分かるというものだ。

「戦後文学」ばかりでない、欧米なんかで名作とされているいくつかの童話と突き比べてみたときにも、『ごんぎつね』の完成度は圧倒的であり、たとえば、『幸福の王子』とか『マッチ売りの少女』とか『人魚の姫』とかいう作品の、読者の胸にもたらす「悲哀」や「涙」やが、『ごんぎつね』のそれとは似て非なるものであることを――もっと言えばそれらの「エセっぽさ」まで――瞭然として知るに至るのである。


どういう意味だろうか?

『ごんぎつね』は真の文学で、戦後文学は「文学もどき」だとは――?

『ごんぎつね』の感動は「本物」で、『幸福の王子』のそれは「エセ」だとは――?


具体的には、こういうことである。

―― ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。兵十は火縄銃をばたりと、とり落しました。青い煙が、まだ筒口(つつぐち)から細く出ていました。 ――

これが『ごんぎつね』のエンディングであり、しめくくりの文章である。

かたや、

―― 神さまが天使たちの一人に「町の中で最も貴いものを二つ持ってきなさい」とおっしゃいました。 その天使は、神さまのところに鉛の心臓と死んだ鳥を持ってきました。

神さまは「よく選んできた」とおっしゃいました。 「天国の庭園でこの小さな鳥は永遠に歌い、 黄金の都でこの幸福の王子は私を賛美するだろう」 ――

これがオスカー・ワイルドが「幸福の王子(とツバメ)」に与えた、「報い」である。

ここに違いがある。

ここに分かれ目がある。

ここにこそ、一流と四流の、本物と偽物の、真の天才と単なる凡庸との、決定的かつ絶対的な「差」があるのである。


――どういう意味か?

こういうことである。

南吉は、「青い煙が、まだ筒口(つつぐち)から細く出ていた」とだけ書いて、筆を置いた(置きえた)。

ところがワイルドは、「心臓はごみために捨てられ、 そこには死んだツバメも横たわっていた」――ここで筆を置けなかった。置けなかったから、「天国の庭園でこの小さな鳥は永遠に歌い…」という「報い」まで、書いてしまった。

――これが、「差」である。

これが、「大成功」と「大失敗」の、分かれ目である。

私はここに、本物と偽物という違いのほかにも、ひと頃流行った「バカの壁」のようなものを、はっきりと認めるのである。


だって、そうではないか。

物語のエンディングにおいて、それを読み終えた読者が抱くであろう「気持ち」をば作者が書いてしまって、どうするんだろう。

あるいは、「作者自身の気持ち」なんかを書いてしまって、どうするんだろうか。

物語の最後で、(作者の想定する)読者の感想や、作家自身の思いを書くなんて、まずもって、「三流の三流たるゆえん」でしかない、

あまつさえ、

物語という「器」を借りて、作家の「信仰告白」まがいの行為をしているとしたならば、――それこそ、もっとも「慎むべき行為」である。


なぜか――?

なぜ、それがいけないというのか?

では逆に問うが、そんなふうににして「読者の気持ち」や「作者の思い」をば書くことによって、いったい何がしたいというのか?

「信仰告白」までしてみせなければならなかった、その「理由」なり「目的」なりとは、いったい何であるからだというのか?

まさかまさか、「この物語はこう読むべきです」などいう、「指南」ではあるまい――?

もしももしも、「指南」だとしたならば、オコトバですが、「大きなお世話」でございます。

大きなお世話、余計なお節介、親切の押売り、偽善者の自己満足、偽預言者による偽預言―――ほかにもいくらでも言ってやれますが、もっとも堪えるだろう一言は、「才能ナシ」でしょうか…!


童話から「教訓」を得るか得ないか、そんなことは「読者の自由」である。

児童文学でも純文学でもなんでもいいが、あくまでもあくまでも、「物語をどう読むか」なんて、「読者側に全権限のある、自由の中の自由」である。

もしも、そんなことすら分かっていない作家がいるとしたら、そんなクリエーターは三流も三流、四流以下である。

それと同様に、

物語の主人公たちに、「報い」を与えるのは、あくまでも「読者」である。

物語を読み終えた読者だけが、その心の中で「幸福の王子」や「マッチ売りの少女」に対して――彼らの心に共感し、彼らの思いをば共有し、彼ら意志をこそ自分の意志とするという――「報い」を与えるのである。(それ以外の「報い」など、ありえないのである。)

もしも、作者の方で「でしゃばって」、ワイルドのように「神さまが…」などと書いてしまったならば、その瞬間に、王子の身体から金箔を剥いでいったツバメの行いも、サファイアの目玉を抜き取られた王子の心も、その物語の中で「報い」を受けてしまう。

そんな報いは、報いではない。だから、後に残るのは、「(報いがあって)良かったですね」という、無味な感想ばかりである。

あるいは、「勧善」という「押しつけがましい作者の思い」に対する反感であろうか。

間違っても、「良いお話を読んで、素晴らしい教訓を得られました。作家さん、ありがとうございます」――そんな、抱いてほしくても、「作家にとってヤサシク、ノゾマシイ感想」なんか、読者において期待しない方がいいというものです。

なぜなら、

「読者」とは、作家の思うほど素直な生き物ではなく、作家の考えるほどバカな存在でもないから。(すべての作家も、読者としての実体験があるのだから、分かるはずである。)

逆を言えば、作家の思うほど、「読者は作家を尊敬していない」のである。

それが子供のものであろうが、大人のものあろうが、読者という「人の心」を、いったいどんな作家が、自分の思うように「誘導」できるだろうか。(そういうことをしたがるのは、ひっきょう、「独裁者」としての資質があるからではなかろうか。)

それゆえに、こう読んでほしいとか、こう読むべきである(あるいは、作者としてはこう思っている)――というふうに書かれた物語が、たとえ一時的にも「作者の思惑どおりに」読者を「教育」できたとしても、そんな「教育的影響」は、「感動」のように永続するものではない。

むしろ、金メッキのように「教育的なニュアンス」をはがされて、「作者の意図」があらわになった暁には、作家ふぜいの猿の浅知恵が作り出した「神さま」など、純然たる「偶像」にすぎなかったことがことごとくバレてしまい、――そのようにして、「預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれ」、「物語」それ自体もまた、ゴミのように捨てられてしまうのである。

だから、いつまでも残るのは、啓蒙的な作者に押しつけられたナニモノでもなく、読者の心が自由に掴みとった「感動」の方なのである。


――しかししかし、こんなことを、オスカー・ワイルド”先生”に申し上げたとしても、今も昔も、きっと分からないであろう。

アンデルセンにしても、『マッチ売り』においても『人魚の姫』においても、ワイルド先生とまったく同じ「ミス」を犯している。

トルストイ大先生の童話なんか、最初から最後まで「ミスだらけ」である。

同様に、

たとえば遠藤周作先生や、大江健三郎先生なんかにおいても、その文学において、さながら憑かれたように、「啓蒙」と「教育」に明け暮れている。「青い煙が、まだ筒口(つつぐち)から細く出ていた」というふうに筆を置くこともできないまま、ひっきょう「偶像」にすぎない「神さま」を押しつけることにやっきなったりして、いったい、何を伝えたかったというのだろう――?


「教育」でも「啓蒙」でもなく、「物語の出来栄え」として論じてみても、想像すれば分かるだろう。

もしも『ごんぎつね』のエンディングにおいて、ごんと兵十が、お釈迦様の国で再会して、仲良く語り合って・・・というようなシーンが、描かれていたとしたら、「興ざめ」以外のなんだろうか。失敗以外のなんだろうか。そんな「シラケるしかない」結末こそが、『幸福の王子』には書かれているのである。

『幸福の王子』ばかりでない、おおよそ「西欧的」な、「戦後的」な文学なんて、「シラケる会話」や「シラケる地の文」ばかりで成り立っている。

それゆえに、そんな文学は一読の労を取るにも値しない。

少なくとも私は、

「青い煙が、まだ筒口(つつぐち)から細く出ていた」――ただそれだけを、そのまま読み終えたその時に抱かされる、言いようのない「憐れみ」(これを日本風に言い換えるのならば、もののあはれ、か)だけでいい。

ごんや、兵十に対して抱かされる「憐れみ」の気持ちは、たとえば聖書の中の物語に触れた時にさえ、抱かされるものではない。

余談にはなるが、偶像ではない「神」の名前とは「憐れみ深い…」なのだから。

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