toutenkoshi

有田町の赤絵町で生まれ育ちました。 江戸時代から受け継がれた街並みは谷底に軒を連ねた …

toutenkoshi

有田町の赤絵町で生まれ育ちました。 江戸時代から受け継がれた街並みは谷底に軒を連ねた 窯場風情が残る佇まいでした。 令和の時代にも谷を渡る風は同じでも、伝統という無形の重みが薄れる今日、有田に残躯をいまだとどめる者として、嘗てこの地に魂魄躍動した時代があった事を綴って参ります。

マガジン

  • 明治伊万里の粋 その3

    近代産業文化遺産として明治伊万里を評価するのは鍋島藩一藩の殖産興業から国家の殖産興業に進化し外貨獲得に貢献したからである。

最近の記事

明治伊万里 殖産興業の先覚者 高柳快堂の画業

色絵南画早春雪渓図大花瓶  陶画:高柳快堂作 製造:香蘭社製 年代:明治十四年 サイズ:高七十㎝ 有田焼の色絵の技術は十七世紀、中国明末に平戸生まれの鄭成功を介して伝わりました。 当初は景徳鎮の代替品として製造されましたが、徐々に我国独自の様式に変わっていきました。 南画も中国より伝播し、日本の池大雅や田能村竹田により新境地を生み出されていきます。 高柳快堂の画風は竹田やその子直入の系譜に連なっています。 南画の格調高い風雅な趣を陶磁器で表現するのは冒険だったと思われます。

    • 有田焼の伝統をいかにして残すか!

      1900年のパリ万博を挟んで、欧州の美術工芸界ではジャポニスムから派生したアール・ヌーヴォーが台頭した。そのような最中、渡欧した深川忠次は大いに影響を受けて、有田焼における「和のアール・ヌーヴォー」を試みた。 図案の改良は明治初期から納富介次郎等によって編纂された「温知図録」などによつてなされたが、伝統的なものが洗練されたという域を出なかった。 筆者が図案らしい図案として評価するのは忠次がおそらく考案したであろう「朝顔図」である。 この連続模様は壁紙のデザインで有名なウイリア

      • 明伊万里物語の材料 その一

        鍋島藩の国際感覚は長崎の警護役を黒田藩と一年交代で受け持たされた事で培われた。 明治を語る上で遡らなければならない幕末のアジアにおける大事件は先ずは阿片戦争(1840〜1842)における眠れる獅子、清国の敗北であろう。西洋列強の帝国主義の脅威は否が応でも高まった。日本への脅威は国防論が沸き起こり、国体の変革を求める尊皇攘夷運動へと展開していく。 佐賀藩がこの事件より以前にいつ早く緊迫した国際情勢を身につまされ、当事者として災難を被ったのはフェートン号事件(1808)であった。

        • 和魂洋才 明治伊万里の粋 その2

          目当ての明治中期に輸出された精磁会社製の品物は簡単には見つからなかった。 それではと、レンタカーを駆使して、郊外のセーラムの市街地や海岸沿の別荘地帯であるマーブルヘッドまで出かけた。セーラムは大森貝塚を発見したエドワード・モースの日本滞在中に集めたモースコレクションがあるピーボディーミュージアムがある。セイラム魔女博物館などもあり、静かな良い街である。 マーブルヘッドは大西洋に面した白砂青松の風光明媚なリゾート地であった。 テーマパークにある様な簡素なギフト屋?の様な店にはい

        明治伊万里 殖産興業の先覚者 高柳快堂の画業

        マガジン

        • 明治伊万里の粋 その3
          1本

        記事

          和魂洋才 明治伊万里の粋 その1

          今から37年前、ボストンに降り立った私は早速市内のアンティークショップを探し回った。 19世紀末(明治中期)この街に輸入食器を一手に販売するフレンチ商会「89,91&93.FRANKLIN ST. BOSTON」 はあり、一族の三男、アーサーフレンチが有田に来て洋食器開発を指導し、全米での販売代理店にもなった。(後に詳述する)だからと言って100年以上経ったこの街の何処かにあるという保証はない。  物語を明治元年に遡ろう。この前年、慶応3年パリの万国博覧会に参加した佐賀藩

          和魂洋才 明治伊万里の粋 その1

          深海墨之助

          本年は明治初期、日本一の名工と久米邦武も称えた深海墨之助にスポットライトを当てます。 明治6年のオーストリアのウイーン万国博覧会はジャポニズム旋風が欧州を席巻し始め、大成功を収めた。それを受けて前期香蘭社が設立され、深海も弟竹治と共に参画しました。 明治9年、後に香蘭社と袂を分け、精磁会社を共に創立し社長を務める手塚亀之助とフィラデルフィアで開催された万博に参加するために渡航しました。 手塚とは莫逆の友でした。数年前、厳父年木庵喜三が存命中、中国で腕試ししたいと有田を出奔した

          深海墨之助

          フェノロサの訓告

          http://www.gallerykaden.com/

          フェノロサの訓告

          母の実家2

          有田の窯元は気位が高かったが、自身の窯に通う職人には大変な心配りをしたものだったようである。窯焼の女房は「世話焼」と言われたものだ。 職人の家族構成を把握し、冠婚葬祭から幼子の成長にも気を配り、言わば細やかな子育て支援のようなことまでしたそうだ。 母の実家の松尾窯は、江戸時代から陶磁器生産は免許制で誰でもなれるものではなかったのだが、鑑札持ちの窯の一つであり、門構えの屋敷はそれを物語っていた。 母が言うには、窯元が贅沢していたとされるものでもないが、決して青物の魚を口にしたこ

          母の実家2

          母の実家

          本日は上巳の節句だ。 この季節になると母から頼まれ、桃の花をもらいに親戚の家に自転車をこいで行っていたことを想い出す。 此処には目線がキツイお婆さんが、屋敷の奥の座敷に控えていて気が引けた。 桃の花が咲いていた母の実家は、日本で初めて石炭窯でタイルを焼いた松尾徳助の窯があったところだった。 彼の長男は窯に見切りをつけて大陸に出奔し、次男が跡を継いでいた。その長女が母であった。 母の妹は、大陸に渡った叔父に子が無くそこの養子になった。 しかし、それなりに成功した叔父は大陸で亡く

          母の実家

          深海墨之助

          深海墨之助が「花兎」の意匠を考案した源は、茶道藪内流の「紹智金蘭」と云う「名物裂」にある。 彼が藪内流の門人であったことを物語るものでもある。 陶磁器の文様の源流に染色文化の関わりがあることは今後「学際」で研究がなされるべきである。 因みにこの度の「花兎シリーズ」の色彩の数は17色である。 ※紹智金襴(しょうちきんらん) 名物裂の一つです。麦藁筋と称する綾目を持つ萌葱色の綾地に、金糸で簡明な花兎文をあらわしたものです。茶道薮内流の宗匠紹智にゆかりの裂とされていますが、その由来

          深海墨之助

           深海墨之助

          本年は明治初期、日本一の名工と久米邦武も称えた深海墨之助にスポットライトを当てます。 明治6年のオーストリアのウイーン万国博覧会はジャポニズム旋風が欧州を席巻し始め、大成功を収めた。それを受けて前期香蘭社が設立され、深海も弟竹治と共に参画しました。 明治9年、後に香蘭社と袂を分け、精磁会社を共に創立し社長を務める手塚亀之助とフィラデルフィアで開催された万博に参加するために渡航しました。 手塚とは莫逆の友でした。数年前、厳父年木庵喜三が存命中、中国で腕試ししたいと有田を出奔した

           深海墨之助

          明治伊万里の復刻版

          『色絵花兎紋シリーズ』有田焼花伝造 令和年製 今年もわずかになりましたが、惜しむ心よりはやる気持ちで来年に期待します。 来年は癸卯(ミズノトウ)です。 前会社では有田焼のシリーズ物の新製品を数多く開発しましたが、独立後はほとんど単品開発でした。 今年はいい出逢いがありました。 明治初期に精磁会社を立ち上げた一人である深海墨之助の作品をほぼ確証できる珈琲碗皿を入手したからです。 彼は明治九年のアメリカのフィラデルフィア万国博覧会に刎頚の友であり、精磁会社の社長になる手塚亀之助

          明治伊万里の復刻版

          士魂洋才 明治伊万里の粋

          その三高柳快堂という人に何故か魅かれる。 佐賀は久保田の出身だ。 南画家として中央にも名前が聞こえた人物であり、縁戚の本野盛享は従兄弟であり、読売新聞の創業者の一人である。 その息子の一郎は外務大臣として知られている。 自身の息子、豊三郎は読売新聞3代目の社長だった。 どの様な関係で有田にくだり、香蘭社の仕事を担い、或いは製陶業の子弟の育成にも関わったのかは定かではない。 ただ、近年里帰りした彼が手掛けた香蘭社の南画調色絵磁器の飾皿や飾壺から推測するより他ない。 「色絵南

          士魂洋才 明治伊万里の粋

          士魂洋才 明治伊万里の粋 その2

          深海平左衛門喜三の総領、墨之助のこと。 「色絵龍に珊瑚双耳付飾瓶」深海墨之助作 明治初期 海内一の名工、深海喜三平左衛門の二人の息子、墨之助、竹治も揃って名工であった。 墨之助は自分の技量は既に中国磁器を凌駕していると思うが、実際渡航して確かめたいと、密航は御禁制だったので周囲のものは大反対した。 慶応三年と思われるが、彼は振り切って密かに長崎に向かった。 それを察した竹馬の友であり、明治9年フィラデルフィアの万国博覧会にも共に参加した、後に香蘭社を離脱し精磁会社を共

          士魂洋才 明治伊万里の粋 その2

          和魂洋才 明治伊万里の粋 その1

          今から37年前、ボストンに降り立った私は早速市内のアンティークショップを探し回った。 19世紀末(明治中期)この街に輸入食器を一手に販売するフレンチ商会「89,91&93.FRANKLIN ST. BOSTON」 はあり、一族の三男、アーサーフレンチが有田に来て洋食器開発を指導し、全米での販売代理店にもなった。(後に詳述する)だからと言って100年以上経ったこの街の何処かにあるという保証はない。  物語を明治元年に遡ろう。この前年、慶応3年パリの万国博覧会に参加した佐賀藩

          和魂洋才 明治伊万里の粋 その1