「他/多なるもの」と「書く」こと。

このnote記事をもって、30日連続更新が達成される。らしい。
感慨深い。
反面、素直に賀ぐこともできないでいる。自分で自覚しているのだ、どうしようもない記事を吐き出してきたことは。それも十分に。そういうエゴイズムに塗れた(まみれた、と読むのですね。知らなかった)吐き出し行為が、noteという場にとって、必ずしも肯定的な状況を作り得ないであろうという考えもあるから、自分のしてきた行為への負い目も感じている。


そういう負い目があるので、いずれ記事は削除したり整理したりしたいと、思っている。
あるいは、これまで書いてきたものを、まったく同じ順番でなぞり直して、二週目に入ってみるのも、面白いかもしれない。適宜リライトしつつ、過去の痕跡に今の状況がもたらすインスピレーションを、一滴か二滴加えてみるのだ。やりっぱなし・投げっぱなしの悪癖がある自分にとって、程よい距離から振り返り、そこにあるものをやわらかく受け入れる練習は、案外必要なものかもしれないと思っている。

ともかく、これまでなんらかの形で私のnoteの記事に目を通してくださった全ての方々に、記して感謝します。本当にありがとうございます。


「スキ」を飛ばしてくださる方、ありがとうございます。それをみると、自分の考えていたことが誰かの思考の地平に、一度であれ、瞬間的であれ、置かれたのだと感じます。そう感じて、嬉しくなります。

***

30日の切れ目ということで、自分に向けての自己開示を、少しだけやってみる。

やりたいことは何か。


30日経ってもなお、やっぱりそれは「書く」こと、と言えそうだ。

「書く」ということは、考えるということであり、知るということであり、伝えるということであり、具体的な形にするということであり、はいいろののうさいぼうのかかえる「なにか」を自分も他人も「手に取れる」ようにすることである。


「書く」ということは、自分の知性と感性が捉える「なにか」を、共有可能な形に整えて、提示し、その真偽や価値を他者と共に吟味することで、「より正しく」かつ「共有するに足る」知見に洗練させ、それをこれまでの大きな蓄えの中に位置付けていくという一連の作業を指す言葉だ。

だから、自分にとって書くことは、単純に自分が喜びを得るための表現手法でもあるし、同時に、あまた存在する他者(たち)の世界に、ひとつの「意味のある〈意味=言葉=思想〉」を刻むような営みでもある。

「書く」ことの「交通性」、あるいはコミュニケーションの機能。
私は、「書く」ことを通じて、他者と繋がりたいのかもしれない。もっと言えば、「書く」ことを通じて、うちに抱える孤独を和らげたいのかもしれない。無数の他者と繋がることで。書き手たる私という他者と繋がることで。

***

相変わらず部屋同様、思考もとっ散らかっているけれど、いまわかるのは、私にとって、「書く」という営みと、「孤独」という世界(観)とが、どこかで結びついているのだということである。

さて、そんなことを思いながら書いていると、私は似たようなことをどこかで書いたなあという気分になった。そう、確か、卒論で、似たようなことを書いたのだ。これまでも同じようなことをなんども反復してきたのだろうか。いまもなお執拗に反復しているのだろうか。螺旋を描きながら反復できているのだろうか。疼き続けるやわらかな反復をすくいだせるだろうか。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?