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大学卒業して何者にもならなかった私の道のり

私のプロフィール記事から飛んできてくれたことと存じます。

まとまりのない書き散らしです。信仰の世界に本格的に入って10年になりますので、少し立ち止まって冷静に振り返りたいと思います。

10年ほど前、当時学生の私には卒業してからやりたいことがありました。ですが天理教内部の方や親から強く反対され、卒業したらすぐに道(天理教)につくよう説得を受けました。しばらくの期間、教内の方々や教会長である親との問答を続けたものの、結局私が折れて、内定辞退をした末に、この道につくこととなりました。

ひどい話だなと思った方、あいすいません。
よくある話だなと思った方、ですです。
信念のない奴だと思われた方、そうかもしれないです。

この決断について、当時、教外の友達や大学の先生にはたくさん話を聞いてもらいました。決断して即、私は後悔していました。彼らの支えがなかったら、その時の私はどうにかなっちゃってたかもしれない。

具体的にどんな葛藤だったのか、なぜあの時この道を選んだのかは、未だになかなか言葉になりません。
ただはっきり言えることは、選択肢が与えられている中で、私は自分で答えを出し、天理教の道を選んだということです。生まれて初めて自分の人生を自分が引き受けた感じがしました。

そこから先は、修養科(天理教の本部にある教えを学ぶ3か月のコース)に行ったり、天理教の専門学校に行ったり、上級の教会で住み込み青年をしたり、1年間知らない土地で布教生活をしたりしました。

どれも私に素晴らしい経験を与えてくれました。友達もできました。今自分の周りにいる幾人かは、志を同じくする仲間になってくれそうな気がしています。
同じような立場で、私よりはるかに前向きに進んでいる人に何人も会いました。私には眩しすぎるくらいにです。

それなりの年月を重ねる中で、当時の迷いや後悔、拘泥は少しづつ薄まってきています。天理教の教えは素晴らしいと今では言えます。それを人にも伝えていきたいし、できれば自分の子にも伝えたい、伝わってほしいと思います。

ですが、率直な感想として10年経った今、私は何者になれた感じもしていません。十分な努力を注いできたのかと問われると、現時点での結果から判断するに、足りているとは言えない。そこに多少の焦りのようなものは感じています。

あの時別の道を選んでいたら、と思うこともあります。ですが、おそらくどちらを選んでも多少の後悔は残る選択だったと感じています。

ならどうすればいいのか。過去に巻き戻ることはできないのだから、選択した先にいる今の自分が、過去の自分が決めたことを肯定してやるだけです。今の私が、過去の選択を正解にしてやるしかないです。そのための今日です。

この教えが、ちゃんと心に治まった時、自分が何者になれているかなんて気にする必要すらなくなっているのかもしれません。私の執着がまだそこには残っているのだと思います。本当に自分の心だけはどうにもならないと感じます。

明日が来れば、私はまた私をやるでしょう。人生を進めなければならない。ですがこのひと節に来て、一瞬だけ立ち止まらせてもらおうと、ここに書き留めさせてもらいました。明日からまた、この終わりなき日常を生きていこうな。

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