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水の味

信仰度★★☆☆☆

あけましておめでとうございます!

2023年とか完全に未来に来ちゃいましたね。皆さんは2023年は初めてですか?私は初めてです。

年末に家族がコロナにかかりまして、あらゆる予定をキャンセルして過ごしました。まず母がかかり、次に妻がかかり、最後に会長である父がかかりました。

母と妻がほぼ同時に寝込んだので、年末のあれこれはいきなりハードモードになりました。年老いた祖母も奮起してくれ、なんとか年を越せそうなところまで来たのもつかの間、今度は会長が発熱し、今年の元旦祭は会長不在でつとめることになりました。

教会のこともさることながら、私の一番のミッションは0歳の娘の世話でした。ミルクにおむつに入浴寝かしつけ。今まで主に妻が引き受けてくれていましたが、妻を隔離したので、不器用ながら一週間ほど「わんおぺいくじ」をやらせていただきました。

感想としては、そうですね。母ちゃん(妻)はえらい、それに尽きました。

日中は良く寝てくれて、助かりました。しかし夜になると毎晩泣き止みません。この頃の赤ちゃんが泣く原因なんて完全に分かるわけないと頭では承知しているんですが、それでも泣き止まない娘を抱きながら、お母さんに会えないの寂しいよね、とか親としてなにもしてあげられないな、とか余計なことを考えてしまう毎日でした。幸い妻の症状は軽く、時折電話でアドバイスを受けながら、楽しく娘との濃厚な時間を過ごしました。


おかげさまで、症状は皆軽く済みました。遅れてかかった会長はまだ療養中ですが、大晦日には4世代母娘揃っての年越しが叶いました。よかったね。

その大晦日のことです。その日から療養が明けた母と、夕刻に神殿で元旦祭の準備をしていました。黙々とお社を掃除していた母が

「だけど有難い、だね。」

と沈黙を破りました。

ん?そういう本のタイトルあったな。くらいでその場は適当に受け流しましたが、言われてみれば確かにそうです。

物理的な大変さは確かにありましたし、方々にちょっぴり迷惑かけたり、初詣を予定していた方々にお断りを申し出る心苦しさはありましたが、とはいえ、行く年を振り返るに、当教会にお恵み頂いた御守護はいくつもありました。

家族の誰かが病んで大変さを感じるのは、昨日までの元気があったからですね。やはり、生きているという実存の喜びの上に私たちは立っているのでして、快・不快や慶事・凶事、楽しみ・苦しみは、その上に乗っかっているのだと実感いたします。

物事の良し悪しや幸・不幸を、客観的な境遇に委ねるのでなく、「私」の受け止め方によって決める。これが訓練を積み重ねて少しずつだができる場面が増えてきている。未だ短い信仰人生ですが、他でもない私自身が感じている喜びです。楽しさといってもいいかもしれません。

ふと母に、今年の正月は少し寂しいねと尋ねると、

「とんでもない!久しぶりに本当にゆっくりできる。誰も来ないし、日曜日の中の日曜日!ははは!」と言っていました。「だけど有難い」と呟いた母の心根はこれ以上覗かなくて良さそうです。


水の味

信仰度★★★★★

さて、昨年10月に発布された諭達第4号ですが、かつての教祖年祭で発布されたこれまでの諭達以上に、おやさまのひながたそれ自体にスポットが当たっているように感じました。

その中でも特に気になっているのが、列挙されたおやさまのお言葉です。

 あるときは、
「水を飲めば水の味がする」
と、どんな中でも親神様の大いなる御守護に感謝して通ることを教えられ、また、あるときは、
「ふしから芽が出る」
と、成ってくる姿はすべて人々を成人へとお導き下さる親神様のお計らいであると諭され、周囲の人々を励まされた。
 さらには、
「人救けたら我が身救かる」
と、ひたすらたすけ一条に歩む中に、いつしか心は澄み、明るく陽気に救われていくとお教え下された。

諭達第4号より抜粋


このように、3つのお言葉が列挙されていて、それぞれがおやさまのひながたの門目を示している感じがいたします。

「水を飲めば水の味がする」とは、ひながたの前半で中山家が貧の道中を歩んでおられる頃、いかなる中も神さまの御守護はあり、心明るく通る大切さを説かれたお言葉と理解しています。

「ふしから芽が出る」とは、反対攻撃や警察へのご苦労など、一見苦しいことがあっても、そこから道が開けてくることをお示し下されたお言葉です。成人の過程にふしはつきものですね。

「人救けたら我が身救かる」とは、おふでさきを通して説かれた一つの真実、真理です。たすけ一条の道を歩む中に、いつしか自分自身が救われていく。本教独自の救済観です。たすけ一条の道を歩む≒おやさまを信じてついていくことであり、まさにひながたを歩む、ひながたをたどることの真髄と言えましょう。

この3つのお言葉に、おやさまのひながたの骨子が凝縮されている感じすらしますし、またこの順序を踏むこともひながたの道を間違いなく歩むうえで大切なことと思い至りました。

これはあくまで私個人の、現段階での感想なのですが、すなわちこの3つのお言葉が、此度の年祭までの3年間の歩み方の一つの手本を示しておられると受け取ることもできるということです。

そこで私は、誠に勝手ながら、この3年間の各年を
1年目「水を飲めば水の味がする」
2年目「ふしから芽が出る」
3年目「人救けたら我が身救かる」

を個人の信仰テーマにして生きていこうと思います。

大層なテーマである自覚はあります。当然これに見合った自分ではないですし、日々の活動も決して華々しいものではないでしょうが、10のうちの3つくらいは、この芯がぶれぬよう参りたいなと。

そういうわけで今年は「水を飲めば水の味がする」、このお言葉をほんに成程と思える日を迎えたいものです。水の味をどこまで喜べるか、恵みをそのままに喜ぶ心をどう磨いていくか。

このお言葉、本当に一筋縄でいきませんよね。あまりに明快で、あまりに深い。貧の道中のお言葉としてこそ輝くお言葉にも思えるし、何気ない日常の中で見過ごしがちな恵みを言われている気もいたします。実践レベルに落とし込むのにどれほどの深掘りが必要なのやら。やるべきことはいろいろあります。現段階で決まったことは、この一年はこの言葉「に」生きる、という小さな決意だけです。

そんなことを思うと、年末の我が家に訪れた小さなふしは、私にとって大それた決意をおやさまが後押ししてくれているような気がしてなりません。

ここまで読んでくださりありがとうございます。
どうぞ今年もよろしくお願いします。

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