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「目に見えないけどある」←どうしろと

信仰度★★★★☆

「本当はもっと早くに結婚したかったんです」

おいおいおいおい。

そういう話は別の人にした方がいいんじゃないかと思いましたが、その場を離れることかないませんでした。いや、もしかしたら、「そんな話興味ありませんよ」とすました振りをして、実は他人のそういう話をスゲー聞きたがっている私なのかもしれません。

1.伏せ込み女子の吐露

先日、同じ信仰を持つ少し年下の女性と話す機会を得たのですが、その折に恋愛観というか結婚観の話になりました。といっても、お互いに特定の信仰を持っている者同士の話なので、広く一般化できる内容ではないのですが、その時私の心でふつふつと感じていたことと重なる部分があったので、書き留める次第です。

彼女は、いわゆる「伏せ込み」中の方です。天理教の教会に生まれ、両親がその教会の会長夫妻。学業を終えてほどなく、親教会に住み込んでの修行生活を始めてから数年が経過しています。言ってみれば私と似たような立場です。

伏せ込み(天理教用語)
種を蒔くときに、地面を掘って埋めるようにすること。土に埋めた種が掘り起こされなければ、旬が来て芽生えることから転じて、人の善行も、直ぐには現れないが、時が経ってその陰徳により幸いとして報いられるということを言い表す際に、「伏せ込み」という言葉が用いられる。
実際的には、広く天理教信者の信仰生活において、神さまの用向きの上に真実を尽くすことを指したり、そのためのおぢばや「上級教会」への住み込み修行生活そのものを「伏せ込み」と呼んだりもする
『天理教事典』参照、太字の内容は筆者補足

一般に、青年期に何をして過ごすのかということは、当人のその後の人生を大きく方向付けうるものです。(何歳からでも生き直すことは可能だという話を否定したいわけではないですよ)
人生をそれなりにまじめに考えるのなら、例えばいい学校に入るために勉強しようとか、資格を取ろうとか、良い会社に就職しようとか、起業しようとか思い、それに向けてそれぞれに努力するのだと思います。

やり直しがきくという意味で、青年期は、多少のリスクを負ってでも何かに挑戦するのに適した時期です。他方、有限という意味において、青年期は、無為に過ごして時間を浪費することを推奨されない時期でもあります。ましてや女性の場合、結婚して出産するという人生を歩むのであれば、おのずと若い時分の一年、一日は貴重な時間だと思います。
なので、先ほど彼女のことを「私と似たような立場」と言いましたが、実際のところ、「伏せ込み」という形で捧げている時間の質は、私とは異なるのかもしれません。

なんだか回りくどい前置きになりました。

冒頭の通り、その日彼女は、「昔はすぐに結婚したかったんです」と言いました。コンピュータ関係の学校で学び、そこで得た専門的な技を生かせる仕事に就き、比較的早い段階で結婚したい。そのような人生設計だったようです。まぁなんというか至極真っ当ですよね。

ところが彼女は、その希望をいったん横に置くことになります。両親の意向に沿って修養科を志願して、親教会につとめ、その身を信仰に捧げている。こう述べると、何か彼女のなかで信仰的覚醒があったようにも思えるのですが、私が見る限り、そういうものがあったというよりも、それがこの道の世界の常識だから彼女はそれに沿った、と言ってしまった方が、この際適当だと思います。天理教に限った話じゃないかもわかりませんが、こういう例は本当にありふれています。

より良い学校に通い、より良い仕事に就き、より良い伴侶を得る。これらが幸せな人生を送るための要素であることは、一つの一般的常識です。
しかしそれと並立してあるのが、天理教の信仰ある家庭に生まれたのなら、若い時から信仰を柱とした生活を送ることが望ましい、というもう一つの常識です。

並び立つ二つの常識それ自体は、観念として相反せず成立するのですが、それが一人の人間の中に同時に湧き上がると、時としてその選択を迫られる時があります。神さまの道と人の道は、時々分かれるんですね。そしてそれが当人の心に葛藤を生み出します。
これは私の経験でもありますし、彼女もまたそのような心の葛藤を多少なりとも胸に抱きながら日々を送ったようでした。

私は少し答え合わせをしたくなりました。それで今はどう思っているのかを尋ねたのです。彼女は「私は今こうある事が良かったです」と答えてくれました。それだけで私には十分でしたが、彼女はこのような話を続けました。

「早く結婚したいと思っていたのは、それが幸せの唯一の道だと思ってたからです。でも、それだけが全てじゃないということがだんだん分かってきた。早々と嫁いでも苦労している人はいるし、そういうことを見たり聞いたりできて、まだ浅かった考えが自分なりに深まっていっている感じがするので、こういう時間(伏せ込みの日々)を持てて良かったと今は思います。」

およそこんな内容でした。伏せ込みの日々の中で、目に見える幸せの外側にも有意義な存在があることが、彼女にはなんとなく見えてきたのでしょう。

2.目に見えん徳

天理教の教祖、おやさまの逸話にこのような話があります。

 教祖(おやさま)が、ある時、山中こいそに、「目に見える徳ほしいか、目に見えん徳ほしいか。どちらやな。」と仰せになった。
 こいそは、「形のある物は、失うたり盗られたりしますので、目に見えん徳頂きとうございます。」とお答え申し上げた。
『天理教教祖伝逸話篇』六三「目に見えん徳」(太字は筆者による)

「徳」という言葉について掘り下げるのは、また別の機会にいたしますね。

今回取り上げたいポイントは、この逸話、山中こいそさん自身が「目に見えん徳頂きとうございます」と言ったことです。おやさまが「目に見えん徳を選びなさいよ」と言っているわけではない。信仰に触れることで、信仰者自らが「目に見えん徳」の方を選ぶということに、値打ちがあるのだと感じます。

目に見えん徳があるということ。そんなものはないと思っている人にとっては「妄想」なのです。ですが、その存在を信じる者にとっては「厳然たる事実」なのです。いや、「厳然たる」などと形容せずとも、空が青いのと同じように、リンゴが丸いのと同じように、当たり前の事実として、目に見える徳と並び立って存在するということなのです。そして天理教を含めて、宗教的に得られる安心とは、この目先の現実の外側にある、「目に見えん徳」の存在に気づくことによってもたらされるのだと思います。

しかしそれは、誰かに「あるんですよ」と言われてすぐに納得するものでも、じゃあ今日からあるということにしましょうということで切り替えられるものでもないのです。自分が何かをきっかけにそう感じて、あるいは長い年限のなかでそれを感じて、初めて認識する存在、それが「目に見えん徳」なんだと思います。

どこまでいっても心に治まったものだけが自分のもの。そんなことを教えてもらった一件でした。

追記

私は最後に彼女に対して「それじゃこれからはどうしたいの?」と尋ねました。彼女は「今例えば結婚を勧められてもきっと私はまだそれに見合った人間じゃないと思うんです。だからそうですね、いまはとりあえず色々な意味でスキルアップしたいですね!」

「スキルアップ」かぁ、うーんいいですね!彼女らしいポップな表現で気に入りました!

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