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不動の基盤に乗っている

信仰度★★★☆☆

1.素朴な疑問


神さまにできないことはなにか。

いやぁいきなり不穏な話題ですみません。別に自分自身を浮世を忘れて物思う思想家にしたいわけではないのですが、信仰生活の道中で時々こういう問いも素朴に浮かんできます。

神さまといっても、その存在をどうイメージするかは、それぞれの信仰によるのでしょう。
ここでは、万物に宿るアニミズム的な神々のことはひとまず置いて、セム系一神教に代表される、全能神というか、人格神というか、とにかく、この世や人間を創造し、全き主体性を持つ存在のことをいったん神と定めて、考えを出発させたいと思います。

神さまをこう定義すると、一つの矛盾を指摘する声が想像されます。

「全知全能の神なのにできないことがあるというのは前提が破綻している」 

確かに神という存在は超越的であり、逆にいえば、超越的で全能性を持つ存在であるからこそ神と呼ぶのであるから
「神さまにできないことは何か」
という問いを発する意味などないとも思えるのであります。神さま-少なくともここで掲げる万物を創造した全能神-にできないことなどない。だから神と呼ばれているのですから。

ではなぜあえてこんな問いを浮かべ、そのことについて考えるのか。そんなことについて述べるのは果たしてただの時間の無駄なのか。

私がここで申しているのは「神さまの自己限定」についてです。
すなわち、本来できるのだけど、あえて干渉しない、出来ないことにしていることについてです。

2.不可逆な次元 「時間」

例えば「時間」という概念
これは人間が観測するかぎり常に一定に流れています。
これを突然止めたり、逆向きにしたりできるでしょうか。全能の神さまならおそらくできるでしょうが、今のところそのような事象は観測されていません。
時間が誰にも平等に与えられ、一定の速度を保って流れているのはこの世の摂理です。

神さまは時間を無闇に止めたり速度を変えたりしない。その必要がないからなのかもしれませんが、とにかく常に一定に動いているのが時間です。


3.「時間は神さま」

天理教の教会では大抵夕方頃から神様のお社に灯明を灯します。私のつとめている教会では、毎日決まった時間にその灯明を何人かの当番が一日のお礼と共に消灯します。
ある日、その日の当番の先生が消灯時間の5分前に全員神殿に揃いました。私もそのうちの一人として、待っていました。みんな揃ったことだし、こりゃ早く始まるなと思っていると、長の先生がこんなことを言いました。

時間まで待たせてもらいましょう。時間は神さまですから。

そう言ったので、そこにいた者は私も含めて皆黙って消灯時間を待ちました。そして、時間きっかりに動きました。

たった5分皆が黙って時間を待っていただけの話ですが、私にはその時その場にいた皆が、なにか大事なものを守っているような気がしてならなかったのです。なんとなくこの世には人間の都合でどうにも動かし難い存在がある感がしたのです。

これは、私自身が体験した卑近な例ですが、こういったことは、なにも宗教的場面だけに限りません。例えば冠婚葬祭などの形式的な場において、「じゃ少し早いけどみんな揃ったし始めましょか」とはならないわけです。そこに居合わせた人間の都合は優先されません。
時として人々は時間に付き合わされ、時間に待たされています。

時間という概念の設計者が神さまだとして、しかしその後の成り行きはじっと眺めておられるようです。時間の流れが一定であるということわりは、神さまにもひとまず動かしようがないのです。

こういうと、なにか神さま自身が時間という理に縛られているようで、私が勝手に神さまを矮小化しているように感じられるかもしれませんが、そうではありません。

先ほどの話に出てきた「時間こそが神さま」なのだろうということです。


先ほどから言っているこの「時間」ですが、その存在の本質をつき詰めるなら、それは電波時計が指し示す何時何分のことというより、その基準となる月と太陽の動きが刻む一定の流れのことだということに思いが至ります。

時間が一定であるということは、太陽が決まった時に昇りそして沈むということ。そして、月が決まった周期で満ち欠けするということです。正確なのは電波時計ではない。彼らは合わせているのです。太陽と月の周期に合わせているのです。つまるところ、時間というのは太陽と月が決めている流れのことです。

4.目に見えない存在をどう感じるかという課題

さて当然ながら神さまははっきりとは目に見えません。見えている人も中にはいるかもわからないですが、少なくとも私には見えない。

そういう存在をどうやって感じるか。これは私たちのような人間にとっては非常に大切な課題であるのですが、正直未だよくわかりません。(わかってたまるかという感すらあります)
ただ、その糸口は、何者にも(おそらく神さま自身にも)動かしがたい事象や摂理の中にありそうな気がしますし、太陽と月が刻む「時間」はその一つだと思います。

起源より太陽が昇らなかった日はありません。私にとってこれということのなかった日でも、一生忘れられない苦しみを味わった日でも、間違いなく太陽は決まった時間に昇り、そして沈んだはずです。

毎日必ず日は昇り、そして月は必ず決まった周期で満ち欠けを繰り返す。そういった不動の基盤の上に私たちの生活があり、人生の苦楽、そしてそれに伴う感情の起伏がある。

だからといって、それぞれ抱えている個々の憂いや苦しみが取るに足らないものというわけではありません。ですがそういった大前提の上に乗っかって初めて、私たちは楽しんだり、苦しんだりして生きているのだということに、時折思いを致してもいいのではないかと思います。


※参考までに、天理教の神さまは自らを指して「月日(つきひ)」とお呼びになりました。最後にお言葉を引用します。

さあさあ月日がありてこの世界あり、世界ありてそれぞれあり、それぞれありて身の内あり、身の内ありて律あり、律ありても心定めが第一やで。
明治20.1.13 おやさまのお言葉より

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