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寅さんみたいな父の最期

8年前、がんの末期でものを食べられなくなった父は、自分の家で自分の最期を迎えることにした。彼は栄養や水分補給の点滴もしないと決めて、その意思は固かった。ときどき、果物の汁をすすったり、氷をなめたりして生きていた。コップで水分をごくごく飲むことはできなくなっていた。

胸腺という、めずらしい箇所のがんだった。国立がんセンターでもう打つ手がないと言われた時、父は一切の治療をやめ、延命もしないと決めて、自宅で妻と、最期の時を過ごすことに決めた。

6月に大阪から東京へ父に会いに行くと、太めだった父は精悍な修行僧のような容貌になっていたが、ふつうに起き上がって、トイレにも自分で行き、子供の頃に後楽園球場で観た日米親善試合の話をしていた。ものを食べられない以外は、まったくふつう。その状態が、もうひと月も続いていた。人間は、ひと月ものを食べなくても生きられるのだと、その時知った。父は死ぬにはまだ若く、基礎体力もあったからかもしれない。

***

父は東京都台東区たいとうく谷中やなかの酒屋の四男(六人きょうだいの末っ子)に生まれ、商社に入り、インド、リビア、イランに駐在。フィリピン、メキシコなどにも長期出張。社内結婚した母との間に娘が二人。姉は東京で生まれ、私はインドで生まれた。インド以降、政情の不安定な国には単身赴任し、家族は日本に残ったので、私にとって父はたまに会うレアキャラだった。

下町育ちの父は、途上国での駐在から帰るたびに「日本はいい国だなあ」を連発した。そして「たくさん稼いで国にたくさん税金を納めるのが会社の役目」というシンプルな信念で生きていて、社会人になった私にもよく「儲かってるか?」と聞いた。でも、父とのやりとりはそんな一言二言だけで、何かの話題について議論した記憶はない。メキシコで乗った車が横転して肋骨を折った時のことも、リビアで爆撃を受けて消息不明になった時のことも、くわしく話してくれたことがない。私が生まれてから父が亡くなるまでに、父と2人で話した時間をぜんぶ足しても1時間に満たないのではないかと思う。

仕事人間の父は、残される母のためのお金のことなど、まるで仕事をこなすように段取りをつけていった。母にとっては、夫婦二人暮らしの世帯で相方が自宅で死を迎えるというのは、正直、怖かったと思う。父が息をしているのかどうか不安で、眠れない夜も少なからずあったそうだ。が、母ももともとは部長秘書だから、不安を覚悟にかえて、家に手すりをつけたり、レンタルのポータブルトイレを手配したりと、自宅で父を看取る準備を進めていた。

さいわい、実家の近くに「在宅ホスピス緩和ケア」を専門とするクリニックがあり、そこから医師や看護師が定期的に来て看てくださることになった。だが、基本的に在宅療養の場合は、痛み止めの座薬を入れてあげるのも、痰の吸引をしてあげるのも家族。看護師さんにやり方を教わって、母がしていた。

7月8日にもう一度帰省した時、父は起き上がって水を飲もうとしてむせて、「もう駄目だな。」と、サラっと言った。それでも、病院にいる病人よりはずっと健全な雰囲気だった。

その日、主治医の説明を受けた。実家のダイニングテーブルで、母、姉、私。主治医の先生も、白衣を着ておらず、ふつうのシャツだった。おやつの団欒だんらんのような雰囲気の中で、ここから先、父の体が、死に至るまでどういう経過をたどるのか、説明があった。

呼吸器などの機械を一切つけず、点滴もせず、痛みをやわらげる座薬(もう口から飲み込むことはできないので)だけで自然にまかせた場合、その経過はある程度、予測可能であり、急変ということはあまりない。ゆっくりと着実に血圧が下がってゆき、それにともなって意識レベルも下がってゆき、血圧が50を切ればお別れが近い。そして、父の余命はあと一週間くらいだろう、とのことだった。

長年、がん治療の最先端で働き、今は在宅ホスピスの先駆者である主治医の説明は、信頼できるものだった。とはいえ、余命が一週間ぐらいというのは、信じられなかった。

なにしろ父は、その時点では、起き上がることもできたし、排便も、自分でしていたのだ。食べることと飲むことは出来なかったが、母の作るかき氷を、ちょっとずつ舐めていた。そして、何ひとつ文句も、弱音も言わなかった。「すいかが食べたいなァ」というので、こまかく切ったすいかを渡したが、やっぱり固形物は飲み込めず、悲しい顔をしたときは切なかったが。

私は主治医に質問をする。

「子供たち(父にとっては孫たち)にすぐ会わせたほうがいいでしょうか。小学校を休ませて大阪から連れてきたほうがいいでしょうか」

医師は答える。

「意識レベルはどんどん下がっていきます。早めに会わせてあげてください。明日でも、あさってでも早いほうがいいです」

あ。そうなのか。そうなんだ。
「信じられない」とか言ってる場合じゃないんだな。父の肉体はもう死への準備を進めていて、それは不可逆なんだ。帰りの新幹線のぞみ号新大阪行きの中で、私もやっと覚悟を決めた。

翌日、小学校に欠席連絡をし、子供たちを東京の実家に連れて行った。娘は、おじいちゃんの手を握ったり、氷を運んだり、かいがいしくはたらいた。息子は、痩せたおじいちゃんがこわいのか、なかなか父と目を合わそうとしなかったが、シャイな息子がそばにいくと、父は息子の名前を何度も呼びながら、息子のお腹を、手の甲でぽん、ぽんして、「おじいちゃんは小さいころジャイアンツの選手になりたかったんだ」、と話していた。

息子の顔を見ると父が歌い出す歌があった。
クイカイ マニマニマニマニ ダスキー
クイカイコー クイカイコー
クイカイ マニマニマニマニ ダスキー
クイカイコー クイカイコー
オニコディ〜モ オーチャリアリウンパ〜
オニコディ〜モ〜
オーチャリアリ ウンパ ウンパ ウンパ ウンパ(最初にもどる)
という歌である。
南米あたりの民謡らしく、意味不明で、歌詞も合っているのかどうかわからないが、この歌詞の中に息子の名前と同じ発音があるので、父の中では息子のテーマソングみたいになっていた。陽気でコミカルな曲調なので、父がこれを歌い出すと、息子も娘もケラケラ笑い出すのだった。

***

週末実家に2泊した子供たちを大阪に連れて帰るとき、父は、私と子供たちに

「ありがとう。元気でな」と、寅さんみたいに言った。
これが、私が聞いた、父の最後の言葉だった。

翌、7月13日。あとから考えると、亡くなる前日だった。子どもたちは夫と姑にまかせて、私は京都駅で水なすの漬物2つ、ゆば山椒、赤福12個入りを買って新幹線に乗り、また東京の実家に向かった。はたから見れば、お土産を買って京都観光から帰る人に見えるが、実際には危篤の家族のもとを連日往復している人だ。新幹線の中には、そういう人が少なからず乗っているのだろうと思った。

実家につくと、姉が鍋に見たことのない料理をつくっていた。姉は料理教室の講師をしていて、薬膳も学んでいる。「こういう時には看取りをする者が精をつけなければいけない」と、本格的なサムゲタンを仕込んでいたのだった。

母、姉、私の三人で赤福12個入りはぺろりと食べ、サムゲタンもわしわし食べた。

父は、うとうと寝ていて、あー、うー、と時々うなる。もう、センテンスはしゃべらない。ただ、聴覚と触覚は最後まで残ると医師に言われていたので、私たちは父の手を握って、楽しかった思い出や、謝りたかったことなどを話した。父は少し目をあけて、あー、うー、と答えた。

7月14日。あとから考えると、亡くなる日の朝だ。

父は痰がひどくからんだ。私たちはがんばって吸引をするが、痰の粘度が高くてじょうずにいかない。看護師さんが9時半に来て、鼻から吸引してくれた。

医師の診察。血圧50。「お別れの時がちかづいています。きょうあす、というところだと思います。耳は聞こえておられますから、たくさん話してください」と言って、医師と看護師は引き上げていった。

在宅ホスピスは、最期の時を、家族だけで迎えることを目標にしている。定期的な診察のたびに、医師や看護師が、「その時何が起こるか」について教えてくれたおかげで、私たちは、死に対する知識と勇気をこしらえて、「その時」を迎えることができた。

父の意識レベルが下がっているのがわかった。半目をあけているが、天井のほうをぼんやり見ていて、焦点があっていない。私たちの話に対するリアクションも、なんだか、うすい。

父の意識が、だんだん輪郭を失って、周囲の環境と融合していくかのように見えた。

姉と私は、父のベッドの横にソファを運び、母に父と添い寝してもらうことにした。父と手をつないで横になった母は、数か月ろくに熟睡していなかったので、すぐに眠ってしまった。

なんと平和なひとときなのだろう。大好きな母の横で安心した父の意識が、より大きく漠然とした存在にうつろいゆくようだ。

夕方にさしかかると、父が顎を上下させて息をしはじめた。医師から聞いていた「いよいよお別れ」のサインだ。姉に相談し、眠っていた母を起こす。

母は、「こういう感じになったら早いって、先生は言っていたよね」と言った。そして、父の耳元で、お別れの言葉を言った。

「50年間一緒にいられて、楽しかったよ。私のことは大丈夫。元気にやっていくから心配いらないよ。大好きだったお母さんに会えるね。しばらくの間、交代だね」

父は大学生の時に大好きなお母さんを亡くしていたから、会社で母と知り合ったときにはすでに父のお母さんはこの世にいなかった。ただ、父はよく「自分のお母さんは谷中小町と呼ばれるほどの美人だった」「自分は末っ子で、いちばんかわいがられていた」と自慢していたのだ。なにせ、父は高校生の頃までお母さんに靴下を履かせてもらっていたというから、父のお母さんが生きていたら、とんでもない嫁姑バトルになっていただろう…。

そんな父は、死を覚悟した時、母にだけ、「自分の人生色々あったが、一番良かったのはママと結婚できたこと」と言ったそうである。

だから母は、旅立つ父に、この世に残された自分のことは心配しないで、あの世でしばらくお母さんに甘えてね、というようなことを言ったのだった。

まったく。大好きなお母さんに甘えて育ち、大好きな妻に世話してもらって看取られて、またあの世で大好きなお母さんに甘えるなんて、父はどれだけ幸せ者なんだ。

姉と私も負けじと、「ありがとう」「だいすきだよ」「バイバイ」「ちゃんとやるからね」と父に言った。

顎を上下させて息をしていた父は、息をふーっと一息ついて、すこし間があいた。

そしてもう一度、もっと大きく息をすって、ふーっとゆっくりはいて、半目だった目をパチっと閉じた。

次の息はもう吸わなかった。

父は心電図も、何の機械もつけていなかったが、私たち三人は同時に「いま、父が逝った」と、確実に理解した。医師でも看護師でもないけれど、父の生命活動がいま、止まったことは、同じ生き物としてしっかり確認できた。

私たちは、茫然として、そのすばらしい瞬間を味わっていた。
なんてロマンチックな最期だろうか!

「すごい。本当にすごいよ」

三人とも、ただ、「すごい」しか言葉が出なかった。

どんなにえらい宗教家も、こんなに穏やかで尊厳に満ちた死に方はできないだろうと思った。

私たちはしばらく父のそばで、ただぼーっと、この静謐で親密なひとときを味わっていた。

気づけば半時間ほど経っていた。
「あ。そうだ。お医者さんに電話しなくちゃ」
在宅ホスピスの医師に来てもらい、瞳孔など診察していただき、医師が死亡を確認して、その時刻が死亡時間になった。

***

私には日常で父と一緒に遊んだ記憶がほとんどない。父の働く背中も、生き様も見ていない。が、最期の最期に、父はこのあっぱれな死に様で、私に一生分の贈り物を残して行った。

あれからあっというまに8年が経った。時が経つほど、ふとした瞬間に、ああ、会いたいなあ。と思う。父はたぶん、あの世で好物の人形焼とざらめ煎餅を食べながら、「日本はうまいもんがいっぱいあるなあ」と言っているだろう。




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