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20年前のとある個人商店の話


1月6日

愛知県の平野部、名古屋市南側にしては珍しく、景色が白く煙るほどの雪が降っていた午前。


大府商工会議所の賀詞交歓会に出席しました。

コロナが未だ収束の兆しに至らない中、着席制、会食や湯茶接待なし、など、感染対策の工夫をして、中止することなくこうして顔を合わせる機会を設けてくださった、商工会議所さんに感謝します。皆々様今年もお世話になりますと短時間でもお会いできてホントに良かった☺️
賀詞交歓会に出席するため、その前後の時間は市議会も全控室に議員が在室しており、併せて各会派さんとも新年のごあいさつを交わすことができました。
(コロナ前は消防出初め式が、新年の初顔合わせの機会だったのですが、出初め式は今年も中止😢)

賀詞交歓会には商工会議所20周年のロゴ御披露目がありました。


あれから20年なのか、と思い起こすことあり、書き置いておくことにします。

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大府市商工会から、大府商工会議所になった20年前。
私は本通りの外れの、本と文具・事務用品の店を営む鷹羽の家の、長男嫁は黙って親の家業の働き手になるものだ、という昭和の価値観の名残の中にあって
鷹羽の父が、検査入院のつもりで何も家業の整理をしないまま入院、からそのまま1年経たずに亡くなって、
顧客がある以上、鷹羽の母と私でまずは家業を続けるほか選択肢がなく、とにかく入院時のままの商売を続けていました。

市役所の納入業者でもありましたから、今の市職員の中には、納品や入札などで私が出入りしていたことを覚えている人もわずかながらいます。今の市役所庁舎に建て替わった際には、ちょうど鷹羽の父がまだ存命で入院していた頃だと思うのですが、父に代わって私が、オフィス家具の納品立ち会いで、まだ市職員が出入りしていない庁舎にも入ったものです。仕入先はみな私が父の代役をしていることを承知してくれていて、父が亡くなってからもそのまま商売はできていました。

私としては、鷹羽家の直子(ちょくし)の誰も、父亡き後の商売をなんとかしようという話が出ない以上は、どう軟着陸して家業をしぼめていくか、いつか母に切り出さねばと思いつつ、
義父が残した店をそろそろたたもう、と切り出すには、
夫の急死に向き合わざるを得ない義母の気持ちの整理が必要なのだろう、と逡巡していた頃だと思います。


取引先とも私が回しているなら、私が事業承継すれば良いのでは?という選択肢はありませんでした。
嫁の立場では、事業を継続するにも、資金を回すための担保となる土地建物の名義に一切名前がなく、そもそも個人事業主の商売の取引口座は個人名義で、私に相続権はありません。

家業手伝いで時間は拘束されるものの、昭和の価値観の名残では、拘束時間相当分の給料が私に入る訳もなく、社会保険も健康保険も家業で見てもらえる訳もなく、その上我が子の面倒に割く時間ももらえず、
商売とは別に、子どもを抱える世帯として子どもの成長に応じた教育費を捻出するためには、私が時間拘束相当分の稼ぎを得る必要も迫られており、
昭和の価値観への義理立てが限界な時期でもありました。


さて、当時の話。
大府商工会が大府商工会議所になる少し前に、東知多農協が、知多半島の農協合併でJAあいち知多になり、
今のJA大府支店は、東知多農協の本店だったところで、
「大府が本店だったのに合併して支店に格下げになってしまった」と規模が大きくなることに良い印象がなかった母は
商工会でいいのに、とボヤいていたことを思い出しました。

義父が元気だった頃は、あちこちの店主同士で、喫茶店に集まったり商工会に集まったりしながら、売り出しやイベントの話し合いにも、よく出かけていく人でした。

30年以上前の、本通りの外れの店の、店主夫婦がどんなことを話していたか
知っている人も少なくなったんだろうな
私はそんな頃を知っている1人でもあるのだなと
思い起こしながら、20周年の御披露目の席にいました。

20周年、おめでとうございます。

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