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そんな過去もあった〜大喜利に思うこと〜


数年前に書いた、夜更けの駄文を読み返す(笑)
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録画していたIPPONグランプリを皆が寝静まった頃に観つつ、モニターに表示される大喜利のお題を見て、なんだか言い様のない懐かしさを感じたわたし。

なんでやろなー、とぼんやり考えること数秒。。
あぁ…と少し笑ってしまう。

夫には折に触れものすごいネタにされるのだが、何を隠そう、わたしはかつて秋元康塾の受講生だったことがある。
あの頃のわたしは、周りの大人がどんなに反対しようと本気で作詞家になりたかったのだ。

まさに中二だった。

そう、中二。
当時表向きはそれなりに現実適応しているように見せてたのですよ。「あんた髪茶色いけど染めてるんじゃないの」とか呼び出してくる先輩たちを「これ地毛なんですけど」(実際地毛やったしな)とかわしつつも、音楽室の前で毎日のように親友Sとマイムマイム踊るくらいにはご機嫌な感じで、まあまあマイペースに日々を送ってましたわな。

しかしそんな中二のわたしが「高校進学はしない、東京に行って詩人としてやってみたい」などといきなり三者懇談で表明したものだから、母も担任のミドリちゃんも恐ろしく狼狽したことを覚えている。
とりあえず、せっかくがんばってきたんだから高校進学はしようよ、それからでも遅くないって、と説得され、じゃあ作詞の勉強させてよ、というわけで始めることになったのが、通信講座の秋元康塾だった、というわけだ。

その秋元康塾で提示されていた課題は、さながら大喜利だった。笑いを求められていない大喜利(そんなものがあるとして)。
次の課題は何だろう、とページを開くと、白い背景に、黒いフォント。
そこにある文字列を眺めるドキドキ感。
大きな原稿用紙に書き込んでいく緊張感。

これは何の役に立つのかなぁと思いながら書いた、アイドル売り出しのための企画書。

巷では「秋元康本人は添削なんてしてない、スタッフにさせて、いいアイデアだけ拾ってるんだ」なんて噂されたりもしていた。
でもわたしは楽しかった。
秋元康は忙しい。
そりゃそうだ。
わたしは何でも構わないと思っていた。

そういう世界を垣間見れたことだけでも、田舎の中学生にとっては夢のようだった。
そして月日が経ち修了証をもらう頃には、自分に特別な才能があるともたいして思わなくなっていた。

実際その頃のわたしは「管理されるのはもうまっぴらだ!自分の力で、なりたいようになりたい大人になる」とか豪語して、高校を辞めようとしていたし。
秋元康も忙しいだろうが、わたしはわたしでアイデンティティの確立に忙しかったのだ。

詩人って、なろうと思ってなれるものでなくて(逆に、なれたと思ったらなれているものなのかもしれないが)、淡々と黙々と表現していれば、周りが詩人にしてくれるものなのかもしれないね。
少なくとも中二のあの頃、わたしの詩を楽しみに読んでくれる友とわたしにとって、わたしは間違いなく詩人だった。
まぁ、それで十分だったのだな。

ちなみに学部時代のわたし、実は落語研究会に所属していたのだけど、一度も大喜利はしたことなかったなぁ。秋元康塾でせっかく鍛えてもらったのだから、そこそこ活躍できたかもしれんのに!(いや、無理ですごめんなさい)
落研では落語1つも覚えんと漫才とコントと落研バンドのボーカルやってましたよ。
学祭の舞台でQueenのWe are the champion歌い切って、わたしの落研人生もつつがなく幕を閉じたけどな!

そんなこんな、大喜利や秋元康にはなんだか特別な思い入れのあるわたしなのでした。

…おあとがよろしいようで。

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