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コパチンスカヤのヴァイオリンを聴いて

言わずと知れた奇矯のヴァイオリニスト、パトリツィア・コパチンスカヤ。初心の観客がその演奏に触れたなら、一体何を目撃したのかと平静を保とうとするだろう。そして、終演後には忘我の心地で帰途につくはずだ。コパチンスカヤの演奏は一聴、一見に如かず。
ベートーヴェンの2つのソナタと新ウィーン楽派の小品の対置という、時系列を渡り歩くプログラムによって、彼女の独特な魅力はより鮮明になった。
演奏スタイルは裸足で、ピアニストの真横に譜面台を置く。二人三脚の距離感で演奏は始まった。

慈悲深く残酷な天使。(…のテーゼ?笑)

シェーンベルクやウェーベルンについてよく云われるのが、後期ロマン派の行きすぎたやむを得ない結果であり、調性は遂に崩壊したといった論調だが、コパチンスカヤの手にかかれば、むしろ「調性からの解放」を想起させる。
シェーンベルクの『幻想曲』では、コパチンスカヤの身のこなし、弓の軌跡、顔の表情などが渾然一体となり、長らく調性によって押し込められていた西洋音楽がその自由な行き場を見つけた瞬間を追体験することができた。
ヴァイオリンがあたかも具体的な話し言葉をもつように聞こえるのは、コパチンスカヤが『月に憑かれたピエロ』でみせた器楽旋律的なシュプレヒシュティンメ(*)と対を成す。本人のなかでは、というより元来、言語と旋律は不可分なのだ。

*シュプレヒシュティンメ Sprechstimme とは(外観を描写するフランス象徴主義や印象主義へのアンチテーゼとして、人間の内面性や激情を直に描こうとするドイツ、オーストリアを中心とした表現主義の音楽で用いられる、)歌と語りの中間に位置する歌唱技法「シュプレヒゲザング Sprechgesang」による発声のこと。

参考)
コパチンスカヤの名を、ヴァイオリニストとしてだけではなく声楽家としても不動のものにしたシェーンベルク作曲の『月に憑かれたピエロ』(の音源の一部)
https://youtu.be/48WnNgrH57E

ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ第7番は、そもそもが意欲的な筆致の作品だが、作曲家が楽譜に託した熱量をさらに倍加して演奏するのがコパチンスカヤの演奏スタンスである。シェーンベルク作品に続き、ベートーヴェンのソナタにおいても、彼女のダイナミックな音世界をつぶさに観察して呼応するピアニスト、ヨーナス・アホネンの打鍵や間合いの正確さに耳を奪われ続ける。

ウェーベルンの『ヴァイオリンとピアノのための4つの小品』は短いながらも激しさと密やかさの振れ幅は大きい。第3曲の静謐さを満たす緊張感は、真夜中の林の陰から何か見てはいけない妖気がこちらに向けてじりじりと視線を送ってくるような、鬼気迫るものがあった。ロマン派の延長である表現主義の作曲家たちは、即物的な態度を強めながらも、一方ではより具体的で日常的な、情動ともいえる人間感情の根源をありありと描き出すことに成功している。

ベートーヴェンの第9番ソナタ「クロイツェルソナタ」は、それこそ後期ロマン派かと見紛えるほど大胆なアクセント、急峻なフレージングが張り巡らされる。楽章を重ねるごとに積み上がっていく緊張感は、演奏者二人による緻密な音楽的構築の成せる技だ。

新旧4作品を交互に演奏するという今回の選曲を提案したのはピアニスト、アホネンの方だという。フォルテピアノでの18世紀後半作品の演奏から現代作品の世界初演まで幅広く造詣を深めるアホネンが考えたプログラムを、すべて通して聴いてみると、ベートーヴェンの古典性にこめられた革命的精神と、シェーンベルクとウェーベルンの革命的語法に隠された古典的な身体性や均整が相互作用的に浮かび上がるという仕掛けが見えてくる。
また、ちょうどこの4作品は起承転結として機能している。連作のごとく演奏することで、時代を超えても音楽には躍動があり、演奏者の身体性も音楽の一部なのだということを、聴く者に深く納得させるプログラムとなっていた。

アンコールは短い作品が2つ。2曲目の冗談音楽で軽妙にお開きとなった。

「音楽には交感、コミュニケーション、予期せぬもの、驚きが必要なのです」という自身の言葉を有言実行しているコパチンスカヤ。
コパチンスカヤは「以前から歌唱をやってみたかった」のを、声楽家に就いて特訓して披露したら、声楽家以上のことになったという超人である。二度目のロックダウンの時、作曲も始めたという。
時代が下るにつれて西洋クラシック音楽では、作曲者と演奏者が分業するようになっていった。たしかに、日増しに複雑化する演奏テクニック、作曲技法に追いつくには、分業したほうが効率も精度もいいことは多々あっただろう。しかしそれは、音楽を紡ぐという総合的な営みを前後で切り分けたという意味では、一長一短である。
分化しすぎた各方面を結び直すという意味でも、彼女の存在は興味深い。

時系列もジャンルも越境していく異端の、しかし音楽の原初を丁寧に取り出して示してくれるコパチンスカヤのような演奏家が、演奏史をさらに面白いものにしてくれるのだ。

シェーンベルク作曲『幻想曲』と、ベートーヴェン作曲 ヴァイオリンソナタ 第9番 イ長調「クロイツェル」(今回の会場とは別のところでの演奏のようす)



〈パトリツィア・コパチンスカヤ ヴァイオリンリサイタル〉

2023年3月19日(日) 15:00開演
あいおいニッセイ同和損保 ザ・フェニックスホール

【出演】
パトリツィア・コパチンスカヤ(ヴァイオリン)
ヨーナス・アホネン (ピアノ)

【プログラム】
A. シェーンベルク:幻想曲 op.47
L. v. ベートーヴェン:ヴァイオリンソナタ 第7番 ハ短調 op.30-2
A. ウェーベルン:ヴァイオリンとピアノのための4つの小品 op.7
L. v. ベートーヴェン:ヴァイオリンソナタ 第9番 イ長調 「クロイツェル」 op.47 

アンコールに
リゲティ・ジョルジュ Ligeti G. S.:Adagio molto semplice
ギヤ・カンチェリ G. Kancheli:RAG-GIDON-TIME

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