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書評・感想『実験の民主主義』 ~トクヴィルの思想からデジタル、ファンダムへ~  宇野重規著、若林恵著 感想と個人的な評価

個人的な評価:★★★★☆(星4.5)

基本的には名著であり、内容はとても示唆に富む。
本書は対談形式の本だが、特に宇野重規氏の語りは丁寧かつわかりやすい。
同氏は、かつて某首相に日本学術会議の会員に任命されなかった6名のうちの1人だが、本書を読む限り、任命しなかった某首相はその不明を恥じるべきだと考える。
0.5点の減点としたのは、対談としたことは良かったと思うが、その形式やその他に若干の不満を感じたからであり、それが無ければ十分に5点満点を付けてよい本であったと思っている。


1.  本書の感想

民主主義に関して、宇野氏の様々な見識・意見を聞くことができ、大変参考になった。
もちろん、言葉で語った内容をそのまま書いている訳ではないと思われるが、その語り口はとてもソフトでわかりやすい。

その一方で、若林氏については、本書の中で様々な発言をなされているが、内容的にはやや厳しく、特筆すべきものは少なかったという印象であった。
後述するように、本書では「ファンダム」という概念が重要であるが、それを持ち出すのは若林氏、ということになっている。そうした役割は確かに重要であると思うが、逆に同氏の発言のせいで議論が飛んでしまったり、前後のつながりがわかりにくくなってしまったり、ということがあったという印象であった。

さらに、私はスマホで電子ブックの形で本書を読んだのだが、若林氏の発言の部分は太字のイタリック体(?)になっており、しかも発言の量が結構多かったために、少々読みづらく感じた。
そうした「構成上の問題」から、本書を0.5ポイントのマイナスとした。

以下、本書について私が気になった点をまとめてみた。
なお、「著者」と記述している場合、それは宇野氏を指しており、若林氏については「若林氏」と表記することとする。

2.トクヴィルと「平等化」について

まず、私なりにトクヴィルについて、どんな人物だったのかをレビューしてみる。

フランス人の政治思想家・法律家・政治家。裁判官からキャリアをスタートさせ、国会議員から外務大臣まで務め、3つの国権(司法・行政・立法)全てに携わった。(中略)
ジャクソン大統領時代のアメリカに渡り、諸地方を見聞しては自由・平等を追求する新たな価値観をもとに生きる人々の様子を克明に記述した(後の『アメリカのデモクラシー』)

ウィキペディアより

本書では、ウィキペディアにも記載されている『アメリカのデモクラシー』などを中心に宇野氏が話を展開している。
その中で注目すべきと考える重要なコンセプトは『平等化』である。

トクヴィルは、「平等化」について、ヨーロッパでもその趨勢が既に起きているという認識を持ちながら、アメリカに行った。それは、アメリカがヨーロッパの未来を見通すための格好の実験場であると考えたからでもあった。
そして、トクヴィルはヨーロッパや人類の未来をアメリカに発見した、と考えた。それが『アメリカのデモクラシー』だったのである。

現在、個人がインターネットにアクセスすることで、誰もが情報を入手できるようになったが、それに近い状況を、トクヴィルは当時の「印刷」と「郵便」に見たのである。
どういくことかと言うと、社会そのものは一見すると変わっていない。しかし、情報の生産・流通が変化することで、今までは確固たるものであった「権威」を揺るがしている。このことにトクヴィルは注目した。
それはつまり、それまでの「権威」あるいは「特権」は、文字が読めて、他の人が読めない、ということで保たれていたことに、トクヴィルは気がついた、ということである。

印刷や郵便によって、知識や教養のある人は平準化されていき、それによってエスタブリッシュメントの権威は落ちていく
それは、よく言えば、知識が広く行き渡るということであるが、悪く言えば高い知見の無い人々が発言するようになることを意味しており、それによって物事の真偽や重みづけがわかりにくくなる、ということである。これは、まさしく今の時代と共通する課題であると言えるだろう。

トクヴィルは、アメリカでの「平等化」という趨勢を見て、そこから必然的に「個人主義」が広まっていくだろう、と予測をした。
なぜかと言えば、今までの身分制社会は、血縁、地縁で人を縛り付けてきたが、そこから個人が解放されると、逆に孤立し、自分の狭い世界に閉じ込められていくからだ。これがトクヴィルの見た個人主義の趨勢であった。

これだけだと、全員が孤立し、社会はバラバラになってしまうが、アメリカ社会はそうならないようにバランスをとる仕組みを持っていた。それが「結社=アソシエーション」であった。

トクヴィルは、アメリカには平等な立場で個人が協力し合う習慣がある、と書いている。それがアソシエーションなのである。

この点については、トクヴィルのアメリカ訪問の74年後にアメリカを訪問した、マックス・ウェーバーも似たようなことを指摘している。
ウェーバーは、「プロ倫」と呼ばれる名著・『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において、資本主義が形成された背後には、プロテスタントの非常に狭いセクトの考えが強く反映されていることを指摘した。
そしてウェーバーは、アメリカ人がセクトに参加しているのは、必ずしも信仰という理由ばかりではなく、各セクトが一種の身分保障の役割を果たしているからだ、ということに気づくのである。

ここで「身分保証」とは、移民の多いアメリカにおいては、その出自がどこかを保証するもの、という意味である。ある人物の素性を認証するためには、「どの宗派のどの協会に所属しているのか」が重視された、ということである。

これに対して、日本においては、地方で不平士族が集まって、西南戦争や萩の乱、佐賀の乱などを起こし、それを中央政府が叩き潰していくことで中央集権化が進み、うまくアソシエーションを作ることができなかった。

これに対してアメリカでは、強力な隣国を持たなかったということもあって、強力な中央政府や、中央集権的な軍隊が形成されなかった。
しかしそれによって、例えばアメリカでは、例えばKKK(クー・クラックス・クラン)のような人種差別的なアソシエーションが生まれてきたのも事実なのである。

[私が注目した点]

トクヴィルが注目した平等化について、それがもたらす様々な効果についての著者の洞察は、大変勉強になった。特にトクヴィルが「印刷」と「郵便」に見た効果が、現在のインターネットによってわれわれにもたらされている効果に通じるものがある、という話には、非常に考えさせられるものがあった。

3.行政府の民主化


ここでのテーマは、第一に「政治と行政とを分けて考える」ということである。
著者は次のように言っている。

「政治がよくない」「変えよう」という話が出ると、まず「選挙制度を変えよう」となります。「選挙制度を変えて、もっと国民の声をよく聞こう」というわけです。立法権の機能をアップデートすることによって、国民の意思をよりよく政治に反映する。それがすなわち政治をよくすることである。こういう思考回路は、明らかに立法権中心主義に立った考え方です。
(中略)
行政と市民とをデジタルテクノロジーで結び付けて、よりダイレクトに課題解決を実施することができる方法はあっていいはずです。ところが、われわれは何かというと選挙のほうばかりを見てしまう。民主主地と言えば立法権であり投票であるという思い込みは、どうにかしなければなりません。

本書より

著者によるこの指摘は、確かに鋭いと感じた。
私たちは、著者が言うように、「立法権中心の発想にあまりにも慣れ親しんできているために、肝心要の行政府のことをしっかり考えずに来てしまって」いるのである。
 
そして、第二のテーマとして著者が挙げているのが、「統治」の問題である。
著者は、「統治」というものは、民主主義とは相性が悪い、と指摘している。

これは別のいい方をすると、民主主義を語るうえで、「統治」という問題をどう扱うのかという話でもあります。(中略)
そもそも統治という言葉自体が民主主義と相性が悪いわけです。王が上から臣民を統治するならば、たしかに統治と言えるかもしれません。しかし、人民が自ら主権者となり自治を行う民主主義において、それをはたして統治と呼ぶべきなのかどうか。

本書より


民主主義における「統治」の問題は、私は今まであまり考えたことが無かったので、とても参考になった。
ちなみに、インターネットの辞書で「統治」を調べると、次のように書かれている。

まとめおさめること。特に、主権者がその国土・人民を支配し、おさめること。「一国を—する」

goo辞書より

 
つまり、民主主義の場合には、主権者は人民だから、「人民がその国土と人民を支配する」ことが「統治」の意味、ということになる。「人民が自分で自分を支配する」ということは、本来矛盾することではないのだろうか?ということである。
 
しかしそうであっても、民主主義において、統治の問題を考えることは重要であり、各国の政治社会の伝統の中で、政治体制のあり方とは別に、「統治のクオリティ」を議論することは可能であり、その必要性がある、と著者は指摘している。
 
官僚、あるいは公務員は、立法府が決めたことを粛々と執行する、合理的で無色透明な存在であると考えられがちだが、「官僚も人間である」ということを改めて認識しなおさねばならない、ということである。
 
さらに、著者は、ロザンヴァロンの『良き統治』から以下の2点を指摘している。

  1. これまでの民主主義は、「承認の民主主義」であって、「行使の民主主義」がきちんと問われて来なかった。これはつまり、これまでの民主主義は、「誰に(選挙で)権限を与えるか」の議論ばかりで、市民が自らの権限をいかに行使するかは、十分に議論されてこなかった、ということである。

  2. 民主主義というと、立法府にばかり注目が集まる一方で、執行権が異様に強くなってしまい、たとえ議員内閣制の首相であっても、大統領のようにふるまうことが可能になっている。これは、行政権が強くなりすぎていることを意味している。

これはつまり、「立法権中心の民主主義」ということを意味している。これが著者の指摘である。国民の代表者が議会で決めた法律を実行すれば、それでいい、というのが立法権中心の民主主義の考え方だ、ということである。
すなわち、選挙の日だけではなく、日常においても有権者が政治に影響力を行使することを可能にするのが、本来の民主主義であるべき、ということである。

具体的には、以下のような仕組みを取り入れることである。

  1. 選挙の日だけでなく、執行権を常に監視する、というオンブズマン的な機能を取り入れる。

  2. 情報やデータを公開させ、有権者が日々意見を言うシステムを作る。

  3. 「こういう課題に対しては、こういう対策がある」という問題提起やソリューションの提案を行う。 

[私が注目した点]

今まで、「行政の民主化」は、「行政府の長を選挙で選ぶ」ということで成り立っているものと、単純に理解していた。
しかし、それだけでは十分ではない、ということを本書の指摘によって理解することができた。その意味では、大変参考になったと言える。
しかしながら、実際問題として、本書で示されたようなこれらの機能を、行政の仕組みに取り入れるのは大変であろう。本書では、私がここにまとめたこと以外にも、行政の民主化について様々な議論がなされているが、実際の仕組みとして、どのように具体化していくのか、という問題について、どこかで真剣に議論すべきではないか、と強く感じさせられた。

4.ファンダムについて 

 「ファンダム」は、恥ずかしながら、私も本書を読むまでは知らない言葉であった。以下、本書からその説明を引用する。

特定のアイドルやアニメ、ゲーム、映画などを熱心に応援するファンの集合体を英語で「ファンダム」と総称します。
そこで面白いのは、ファンがもはや一方的にコンテンツを消費するだけにとどまらず、自ら解説動画を作ったり、絵や小説や音源を二次創作したり、外国コンテンツであれば多国語字幕とつけたり、ファン同士でお金を持ち寄って応援広告を街中に掲出したり、といったダイナミックな活動が行われていることです。 

本書より

既述の通り、この本で「ファンダム」のことを持ち出したのは、もう一人の著者である若林氏である。そして、宇野氏がその問題提起を受けて、これ(=ファンダム)を政治に応用できるのではないか、という話が展開される。

趣味を通じてみんなとつながり、何かを共有していく。そこで生まれる関係性やアイデアの力は大きいですよね。今日にもし「アソシエーション」があるとしたら、NPOだと言いたくなります。ただトクヴィルの論点に即して言うなら、孤独な個人がなかなか周囲とつながれない状況で、遠いところにいるコインと「推し」を通してつながっていく、それを通じて関係性を構築する経験を重ね、習慣化している点で、たしかにファンダムのほうがよほどアソシエーションにふさわしいかもしれない。 

本書より

最初の「1.トクヴィルと「平等化」について」で取り上げたように、「平等化」が進む中で、個人は孤立する傾向を深めていく。
アメリカでは、そうならないために、「アソシエーション」という仕組みがあったわけだが、日本ではそれが根付くことは無かった。
これに対して、著者は新たなトレンドである「ファンダム」が、アソシエーションに代わる存在となる可能性を見出しているわけである。
 
著者がアソシエーションを重視する背景としては、「『人間は他者に依存せずには生きてはいけない』という事実から目を逸らすことが、深刻なバイアスをもたらす」という著者の問題意識に起因していると考えられる。

トクヴィルが語ったアソシエーションとは、人が集まって、自由に助け合う技術を相互に教え合って、共有していくものです。孤立した脆弱な個人がアソシエーションに入ることを通じて、お互いに「こういうときはこうしたらいいんだよ」ということをみんなで教え合い、それを喜びとして分かち合うことで、「技術」を一人ひとりが身につけていくことができる。これこそが孤立した個人が、再び能動性を持った市民として社会で活躍するためのステップになるというモデルですよね。そう考えると、ファンダムも政治に応用できる話ですね。

本書より

ファンダムというものは、上から組織化されたものではなく、下から自発的に、あるいは自立分散的に形成され、活動するものであるため、一見すると大した力を持ちえないもののようにも見える。
しかし、かつての市民運動が力を失いつつある中で、「ファンダム」をこれに代わり得るものとして、著者は注目しているのである。

[私が注目した点]

既述のように、私は本書を読むまで「ファンダム」を知らなかったわけだが、ここでの議論を読まずして「ファンダム」を知ったとしたら、単に「韓国発の新たなトレンドやファッションの一つだろう」くらいにしか思わなかっただろう。
しかし、本書での議論を読んで、それを政治に応用できるのではないか、という可能性を知り、とても感心させられた。
著者が指摘するとおり、行政府の民主化は必要なことであると思う反面、国民・住民からの要望が多岐にわたりかつ複雑化しており、行政サイドの負担もずいぶん大きくなっているのではないか、と常日頃感じていた。
ファンダムは、そうした様々な問題の解決にも寄与するのではないか、と強く感じられた。

5.その他・私が個人的に注目したポイント

本書では、これまで取り上げた点以外にも、様々な議論が展開されているが、長くなってきたので、以下は、私が個別に注目したいくつかのポイントを紹介し、感想を述べることにしたい。

(1)官僚と学力の関係

江戸時代には、軍人である武士が事実上官僚化していた。そして明治に入って、西洋をモデルにして法制度を導入し、試験に基づく公平な試験制度を通して選抜された人による統治が実現された、と著者は説明している。
 
「しかし…」と著者は言う。
 
日本では勉強ができる人をバカにしたくなる江戸時代からの価値観が根強く残っている、と著者は指摘している。この点に注目した。
江戸時代には確かに武士が官僚化していた訳だが、武士はあくまで軍人なので、文より武を重んじる気風があるのだ、と著者は言う。「日本には学問に対する憧れはありつつも、同時に『学問だけではダメだ』という武士的な価値観が残っています。」
 
これは、私がいろいろな場面で感じてきたことと一致する。
考えてみれば、日本は鎌倉時代以来、ほぼ一貫して武士が政権を担ってきた。曲がりなりにも、民主主義が確立されたのは、事実上第二次大戦後である。
日本において、長い間武士が政権の中枢にいたことが、著者が指摘する事実と関係しているのだと、改めて理解することができ、大変勉強になった。

(2)  保守の融通無碍さ、左派のコレクトネス


個人的には、この話は大変面白かったし、考えさせられる指摘であった。
 
まず、2つの言葉をインターネットの辞書で確認しておく
融通無碍
「行動や考えが何の障害もなく、自由で伸び伸びしていること」
コレクトネス
「正しいこと。誤りのないこと。」

 
つまり、「保守の融通無碍さ」とは、保守は、特定の方針や主義主張などに拘泥することが少なく、世論の動向に応じて柔軟に対応できる自由さを持っている、ということを意味している。
 
それに対して「左派のコレクトネス」とは、「かくあらねばなならない」という正解や理念に拘泥しがちである、ということになる。そして、その正解や理念をどう国民に理解してもらおうか、という発想からなかなか抜けきれない、ということを意味している。
 
融通無碍な保守は、「いまだったら、人々はこれに関心があるだろう、だから、この政策を打ち出そう」という対応を行うことが可能である。これはまさしくポピュリズムであるが、それをすることに抵抗が少ない。
 
それに対して左派は、国民に自分たちの主張が理解されない場合は、国民が悪いとまでは言わないものの、自分たちの答えが正しい、とする姿勢から抜け出せない。
 
著者は以下のように指摘している。

左派的な立場では、近代社会にはリベラルで民主的な諸原則があると考え、それを何としても実現しなければという使命感がある。(中略)
ただ、そこには人を枠にはめようとする教条的な傾向が潜んでいます。

本書より

これはとても面白い指摘であったと感じた。
自由民主党が、何度か政権を降りることはあっても、再び不死鳥のように政権に復活してくる理由の一つには、著者の指摘する融通無碍さがある、ということなのだろうと理解した。

(3) ボーイズクラブとしての政党

「ボーイズクラブ」というと、もしかすると、何か少しいかがわしい(?)イメージを持たれるかもしれない。
しかし、初期の政党には、一種の「クラブ」特に「ボーイズクラブ」のイメージがあった、とする著者の指摘が大変印象的だった。
 
ここで言う「ボーイズクラブ」とは、「男性中心のホモソーシャルな社交空間」という意味である。初期の政党には、こうした性質があり、それが現在の保守政党にも引き継がれている、と著者は指摘している。

そうした趣味的なつながりから独自の価値観の共有が生まれ、それが政治的な主張へと発展していく。そうした流れから、政党というものも生まれてきました。

本書より

こうして出来上がった政党には、労働者階級は入り込めない。同質性が高く、階級的にも閉じられたサークルだった、と著者は言う。
現在の自民党で言うと、麻生太郎氏や、故安倍晋三氏などにその傾向が色濃く見られた。
 
その一方で左派にはそうした傾向はあまりみられない。
左派はもともと階級闘争の色合いが強く、「自由な労働者の連帯」を目指したが、それではどうしても組織がうまくできなかった。そのために、逆に官僚化してしまった。
 
保守政党は、官僚組織を嫌って、それを回避するためにボーイズクラブのモデルを採用した。
その結果として、右派のボーイズクラブに対して、左派は「官僚化した大衆運動モデル」となっており、その二者択一になっていると著者は指摘している。
 
このような状況を打開するために、ボーイズクラブではない、より開かれた市民的なアソシエーションを作って、その連合体みたいなものからもう一度政党を再編成すべきだ、という議論が1990年代から盛んにされているが、なかなかうまくいっていない。
 
この話はこれくらいにするが、「ボーイズクラブ」という考え方は、大変面白かった。
かつて、ケインズ経済学に対する批判の中で、「ハーベイロードの前提」という言葉が使われた時代があったが、それを思い出させるものがあった。

ケインズが古典派経済学を打ち破る有効需要理論を生み出したハーヴェイ・ロードの地は、イギリスの知識階級が集まる場であった。ケインズの政策提案はこれら知識階級の議論の中に生まれており、政策実施は少数の賢人が合理性に基づいて判断するという前提があり、しかもこれらの人々は決して民主主義的な手続きを経て選ばれた人々ではなく、大衆に対して責任をとる必要のない自由な職業の人々であることが重要であった。
 

ウィキペディアより

ケインズの場合は、その背景に存在したのは、上記のとおり、「知識階級」であった。それに対して、麻生太郎氏や故安倍晋三氏の場合は、どちらかと言えば「良家の子弟」であって、知識階級とは少し違うような印象もある。
 
しかし、両方とも「知的エリート」や「良家の子弟」が国を率いていく、というモデルとしては、共通するものがあるように感じた。

6.最終的なコメント

いままで本書の一部を要約する形で感想を書いてきたが、やはり総合的に見て、大変示唆に富む本であったと感じられた。

日ごろから、民主主義の可能性と課題を感じることは多いが、今まで気が付かなかった視点から学ぶことができたのは、大変貴重であったと感じる。
 
本書は、既述の通り、2人の著者の対談と言う形で書かれた本である。一方が聞き手を務め、他方が語る形式ではなく、2人の著者を並立させるような形式をとっていることが特徴である。
その形式について、どう感じるかは読者次第であると思う。しかし、私としては、宇野氏の話の方がずっと興味深く感じられたこともあり、少々不満が残ることになった。
 
こうした対談形式の本の問題点として、話があちこち飛んでしまって、整理がつきにくくなってしまうことがあると思う。
さらに、話をしている2人の間だけで「暗黙の了解や合意」が成立していて、後から文章だけで読む場合の第三者には、わからない点が生じる、と言った課題があると思われる。
 
しかし活字離れが進む中で、このような本の形式について試す価値は十分にあるとは感じられた。

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