「安心したい」が究極?

私たちの毎日の判断。比較するために必要なことにも書いたとおり、比較すべき事柄を比較して判断する、というのが理性的・合理的なのでしょう。しかし理性的云々の前に無意識の目的がありそうだ、それが「安心したい」ということなのではないか、場合によってはさらに「楽(らく)したい」が顔を出す、という話です。

今回も、ワクチン接種するかしないかの判断で考えてみます。

接種する理由:
多くの人は、接種すれば感染しない(または感染リスクが下がる)、自分が感染しなければ回りへ感染を広げるリスクが下がる、などと考えているのではないでしょうか。さらに「周囲はみんな接種した」、「自分だけ接種していないと白い目で見られるから嫌だ」「接種しなかったために自分だけ感染したら怖い」という理由も、結局はコミュニティーの中で「安心」を求めていると言えます。

接種しない理由:
接種しない理由の一番は、副反応や有効性に関する疑いでしょう。またコロナは風邪のようなものだからワクチン不要、という人もいます。しかしどちらの判断も、接種しない方が安心、との考えてのことでしょう。


このように考えると、ワクチンを接種する・しないは、どちらがより安心だと信じられるか、で決まっているのかも知れません。


そして何でも簡単に信じる人がいる。誰かが「こうすれば安心」と言えば納得してしまう人。考えなくて良いから楽(らく)な選択なんだろうな。

納得できる情報を得るまで信じない人、何が信じられるかを探し続ける人。安心を求めて、今現在のことだけでなく長期的に、論理的に比較しながら考える。でもこれ、エネルギーが必要で大変!

楽(らく)に安心したい?